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「スポーツを通じて人間的に成長する」の嘘

昔から今まで運動部、スポーツクラブでの「いじめ」問題は絶えることない。SNSが発達し、あらゆる場所に情報が拡散されるようになった今でもだ。昔だったら、そういう情報は隠蔽・歪曲し、学校やクラブ内でのブラックボックス化されていた。

だが今でも、日大アメフト部や立大野球部の会見を見れば分かるように、学校やクラブは組織ぐるみで事実を隠蔽・歪曲しようとしている。そんな苦しまぎれの対応はこれからもなんだかんだでなくならないのだろう。

ちなみに筆者は「いじめ」という言葉が嫌いである。社会全体では「傷害罪」や「暴行罪」といった呼び方なのに、学校やスポーツクラブにおいては「いじめ」と評して罪を軽くしようとする魂胆が透けて見えるからである。特に大学の部活動においては部員が「成人」しているにも関わらず、「いじめ」と評して罪を軽くしようとしている現状に違和感をおぼえる。今回の議題では表現として分かりやすく伝わるようにするため、便宜上「いじめ」という語を使うこととする。予めご了承いただきたい。

話は逸れたが、本題に入る。最初に話した運動部やスポーツクラブの「いじめ」は絶えない。この事例を見て私の中に想起されるのは、「スポーツの素晴らしさ」と評してまるで熱心な宗教信者のようにスポーツの価値を吹聴するマスコミの存在である。

その背景にはスポーツを盛り上げることや、スポンサーの意向など色々な事情があるのだろう。この件に関しては説明するとそれだけで記事を書けてしまうので、ここでは触れないことにする。

「スポーツの素晴らしさ」は多岐にわたるものだが、今回は「スポーツ×人材育成」という文脈で話すこととしたい。

「スポーツを通じて人は成長する」「スポーツはチームワークを育むのに役立つ」

オリンピックでの選手のチームパフォーマンスを見たり、倒れた選手に手を差し伸べる様子を見て実況・解説の人はこんなことを口にするのではないだろうか。あるいは、生徒・学生の所属する部活動やクラブについてマスコミが紹介する際、「うちは競技を教えているのではなく、人間を育てているのだ」と言って、挨拶や掃除を徹底させている監督や顧問を特集することは多い。

このように「スポーツ×人材育成」はセットで語られることが多い。もちろん、スポーツにはチームで何かを成し遂げる要素もあり、目標から逆算して何をすべきなのかを考え、実行するPDCAを回す環境も豊富にある。実際、スポーツを通じて人間的に成長する環境は用意されていると言っていいかもしれない。

しかしあくまで環境が用意されているだけで、それをどう活用するかは生徒・学生次第である。生徒・学生が自ら学び実践していくという気概がなければ、人材育成としての効果は見込めない。監督や顧問のサポートも必要になるだろう。

当然このような環境はスポーツ界だけでなく、日々の学校生活やアルバイト、ゼミ活動においても至るところで用意されている。繰り返すことになるが、結局こういった環境をいかに使い倒すかによって、人として成長していくのである。「人間的に成長させてくれる」という受け身の姿勢では人は育つことなどない。

ではなぜ部活動やクラブといったスポーツ界での人材育成がより注目されるのだろうか。その答えの1つにマスコミの影響はあると考えられる。選手のパフォーマンスやスポーツマンシップある行動をセンセーショナルに報道することで、私たちは「スポーツを通じて人は成長する」という暗黙の了解を植え付けられているのかもしれない。

反対に日々の学校生活やアルバイト、ゼミ活動で「人が成長する」様子をフォーカスした記事・報道はあまり見ない気がする(強いて言えば学校生活は割とある方かも💦)。

さて、重ねてにはなるが、いずれの活動においても人間的に成長する環境は用意されている。結局自分次第で、自信が望む能力・スキルは身につくのだ。そのため、人によってその度合いはまちまちであり、全員が一律に同じ成長をするわけではない。

そこに先ほど取り上げたように、マスコミがセンセーショナルに「スポーツ×人材育成」という取り上げ方をする。スポーツを通じて地域活性に取り組む者、新たな会社を作り価値を広げていく者、企業でリーダーシップを発揮する者などといった「人間的」に成長する人がいる一方で、「いじめ」や不祥事に染まる人もいる。これはスポーツに限らず、どんな領域でも一定の割合で出てくるものだ。

しかしマスコミによって報じられるスポーツという「共通の話題」は、学校行事やアルバイト、ゼミ活動などといったものよりも大きな影響力を持っており、それゆえに教育の甲斐なく「いじめ」や不祥事が起こってしまったときには大きなギャップとして世間に広まってしまうのである。
私が「スポーツを通じて人間的に成長する」という言葉に胡散臭さや気持ち悪さを感じるのは、この点にある。

まとめになるが、「スポーツを通じて人間的に成長する」というのは半分正解半分不正解だ。結局、どんな環境であっても自分の工夫・目的次第で成長することはできる。加えてもし「スポーツを通じて人間的に成長する」という言葉に胡散臭さを感じるのであれば、それは教育によって成長する人としない人のギャップが、マスコミの大々的な煽り文句によって助長させていると思い込まされているからだと私は考えている。

他にも、そもそも日本における学校での部活動は「教育」という要素と密接に関わりあっていた。この点も「スポーツ×人材育成」という観点と関わりがあると私は考えている。この詳細についてもぜひ調べてみてほしい。


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