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日本人にとっての民主主義と江戸時代の政治

今日誰かが「政治に無関心な国民は、無能な政治家に支配される」という言葉とともに選挙に行くことの大切さを語っていた。
確かにその通りだと思うが、そもそも この民主主義の体制はよい体制なのだろうか?

チャーチルは次の言葉を残している。
「民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。」

一般庶民が、政治・経済というよりかは自分達の直面する課題や生活、娯楽に集中できる状況では、ものによっては専門的な知識を要求する政治・経済については無知とは言わないまでも無能な政治家が現れやすくなる程度に知識が欠落するかもしれない。(というか現時点で結構している)

江戸時代はどうだったんだろう?

当時の状況を断定的に話すことは難しいが、庶民は政(まつりごと)はお上が行うもので、庶民はあまり考えなくてもよい時代だったという話をしばしば耳にする。

日本人の基本的な気質はそのときから大きな違いがなく、今の投票率が低い要因の一つとして このような日本人の特性も挙げられるかもしれない。

ただ政治家の姿勢については、当時と今で異なるような気がする。

今となっては極端な風潮に思われるだろうが、当時は切腹の風習があった。
切腹の背景には色々な側面があるだろうが、その中に トップの者が責任を取るという当時の人達の概念が背景として含まれていたのではないだろうか。

一方現代に至っては、生前の安倍元総理は「私が責任を取ればいいというものではありません」という言葉を残している。
一部の支持者はこの発言を擁護するだろうが、少なくとも切腹の風習のあった時代の政に携わる人達は、内心どう思っていようが、このような責任回避的な発言はしなかっただろうと想像する。

武士道と立身出世

武士道に関して、勝海舟による江戸城の無血開城について福沢諭吉は、無血開城がなされたことによって多くの生命と財産が守られたが武士道の気風が失われたことは残念だといった主旨の言葉を残している。

その後明治時代では、立身出世という言葉が用いられるようになった。
立身出世の観点では、その立身出世する人の出世はもちろん考えられているが、一般庶民の安全や豊かさに必ずしも結び付くものではない。
時代を経るごとに次第にトップの者が責任を取る風潮が失われてきているように感じるのは私だけだろうか?

政はお上が行うものという意識の人が多い日本民族の特性を鑑みると、一般庶民が身の回りのことに集中でき、普段は庶民が物申さなくても お上がまともな政治を行うのが理想のような気がする。これには江戸時代の状態が参考になるのかもしれない。

現代のエリートへの教育

お上がまともな政治を行うためには、エリートの教育が大切になる。しかし、今の教育では政治・経済・歴史に関して、大切なところほど見当外れ、もしくは間違ったことが教えられている。高いIQと記憶力を持つエリートの卵が誤った知識を吸収していると認識している。

また受験戦争を勝ち抜く過程では、国民の安全と豊かさを志向する考え方が教育されているとは思えない。

以上、無知な国民と無能な政治家の存在に関して、
・民主主義が最善ではないこと
・トップが責任を取る・取らない風潮
・エリート教育

の観点から江戸時代に遡って考えてみた。

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