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「違うこと」で傷ついたときに

「転校生」というのは、ある種のアウトサイダー体験かもしれません。

小学生のころ、4年ほどフィリピンに住んでいたことがあります。

当時は、日本の空港で外国人用の列を案内されるくらい、色が黒くて、それをどこか誇らしく思っていました。

日本に帰ってきたのは小5のとき。
転校初日、教室の檀上で先生から、「この前まで海外に住んでいたんですよ」と紹介されると、少し「おぉ」と尊敬のまなざしのようなものがあって。
その後「フィリピンという国です」と、付け加えられると、どこかがっかりした雰囲気が漂いました。

クラスメイトたちは、アメリカやヨーロッパから来たことを期待していたらしく。
とはいえ、フィリピンでの生活は本当に楽しかったから、気にしていませんでした。

心がざわついたのは、社会科の授業で、農作物の原産地を調べて壁貼り新聞にしようという課題があったときのこと。私は「フィリピンのバナナ栽培」をテーマにしました。
オリジナリティもあるし、スーパーにある身近なものから、世界を考える構成。我ながらよくできていると思いました。(よく自画自賛する子どもだった笑)

それが新聞を貼り終えると、同じクラスの女の子2人組が、私をちらちら見ながら、ひそひそとと言ってくるのです。

「バナナ、バナナ」

明らかに見下した目で、薄ら笑いを浮かべながら。

自分の発表はおかしなものだったのかなと、急に恥ずかしくなりました。思い出すのは、転入当初のがっかりした空気。

フィリピンの美しいところをたくさん知っていたから、バカにされる理由はないと確信はしていたけれど。
だからこそ、彼女たちに言い返せない自分がとても悔しかった。どう説明しても、通じないかんじがして、聞こえないふりをしました。

先日、このときの話をふとSalmonsのメンバーに話すことがありました。
「そのバカにしかた、小学生らしくて、笑えるね。笑」
わりとシリアスな話のつもりで話したのですが、そう言われると、たしかに「バナナ、バナナ」って。
なにをどうバカにしているかも、よくわからない。笑えるなぁと、20年越しに気づいたのでした。

きっとそういうことは、大人になってからもあって。
人種とかセクシュアリティとか女性の性被害の話とか。リアルな場でもインターネット上でも、「自分と違う」ことに対する攻撃のようなものを目にすることがあります。

どんなに筋が通らなくても、そこに見下したまなざしやら声色があると、なかなか傷つかずにはいられないけれど。
そんなときに、それを一緒に笑いとばせる人がいれば、理不尽な言葉に潰されずに、自分が進むべき道が開けるんじゃないかなと考えています。

(そしてあのときフィリピンの魅力を伝えられなかった気持ちがあるから、出版の仕事にしても、Salmonsの写真展やらなにやらにしても、「伝える」ことにずっと興味があるのだろうなと思います)

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