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想像力の鍛え方

音楽と見えない世界

見えないものについて考えている。音楽は時間芸術で、鳴っている音は聞いた瞬間になくなってしまうし、録音でもしない限りは音がその空間にあった保障すらない(録音したとしても、その空間にあったものとは別のものだし、それがそれであった証拠はない)。それらの音の粒を頭の中で組みたてていくわけで、特に演奏前のアイディアや音を妄想するときは何も手掛かりがない。音が細分化されデータ化されてからは音は音でなくデータになり、それらを組み立てることは出来るようになるが、音が見えるようになったのとは違う。便宜上名前をつけて扱えるように錯覚し、人本位で操作しているだけで音自体は依然と見えない存在だ。作曲という訓練の中で鍛えられるのは、見えないものを頭の中で想像して組み立てる持久力のようなものだとも思う。

最新のドラえもんの映画の中で、「音楽は必要か?」という問いかけがあったけど、音楽が必要なのはそれが人々の娯楽であるという以上に人の想像力を刺激するものであるからだと思っている。そこでの想像力はゼロから1を作り出すことであったり、見えないものをイメージする力のようなものだ。人に想像力が必要なのかどうかと更に掘り下げると、無論多くの人が必要だと答えると思うけれども、その理由の一つは「選択する能力」が想像力の中にあるからだとわたしは感じている。人の人生は、どんな人でも「選択する」ことの連続で成り立っている。その「選択」がより納得できるものになれば、人生自体のクオリティも上がってくるのではないかというのが自論だ。

イマジネーションの力と選択

歳の近い姉妹として育ってきたわたしは、幼少期殆どの選択を姉に委ね、自分で何も選択してこなかった。姉妹としてお揃いの色違いのドレスを着て、姉と同じであれば幸せだろうと思っていた。小中学生時代が終わり高校受験の時期に入った頃、状況が変わった。地域のみんなが同じ学校に行くところから地域を超えて自分の行きたい高校を選ぶことになり、初めて「自分の選択」を迫られる(田舎+昔の話で、当時わたしの地域の小中学校は殆ど受験がなかった)。それで最終選択の日に、自分の志望校を誰にも相談せず、全く別の学校に変えることにした。わたしにとってはそれが初めての「選択」で、今振り返っても大きな決断だった。特に根拠もなく2つレベルを上げて受験することにした。

選択には「責任」もくっついてくる。選択したことに対して責任を負わなければならない。そのためには見えない自分の未来をなるべく精度高くイメージして、そのイメージのために必要な経路を自分自身で選択していき、その責任も背負っていく。自身の未来を創造する力は、それらの選択肢に対する情報量の多さでなく、イメージする力そのものにかかっている。人生そのものだと思う。

子どもの想像力

小さな子どもと関わっていると、イメージの力の強さに驚く。恐らく子どもの世界は99パーセントがイメージで、1パーセントの現実で成り立っているに違いない、そう感じるほど彼女・彼らの世界はイマージネーションの中にある。10代に入り、徐々にその世界が狭まっていく。そして義務教育を終えた頃の子どもたちにイマジネーションの力は殆どない。学校教育はイマジネーションを育てる場所ではなく、評価という軸の中でいかにうまく立ち回れるかというゲームで、その中に数字で測れないものは残念ながら殆どない。義務教育だけではない。日々の生活は細分化されたデータに溢れているが、計れないものがない。もやっとした感情も空の色にも、無数にあるように見える小さな星にまで名前がついている。名前のないような想像上の風景は、今の社会の中では土の中にもぐっていて見えることがない。

通常の生活の中にはイマジネーションはない。ただしイマジネーションが顔を出す瞬間がある。それが宗教だと思う。大学生になるとサークルの勧誘に交じって宗教の勧誘がある(らしい)。イマジネーションに蓋をして型どおりの勉強をしてきた子どもの欲求の隙間に入り込むのに適しているのが、この「見えない力」を最大限使う宗教なんだろうと思う。宗教の否定ではない。人々の信じる力は強大なもので、それがこの世界の基盤であることは確実である。しかし大学のサークル勧誘の中で問題視される宗教の勧誘は、人々のイマジネーションの問題(とその後にある選択、そして責任)と直結しているような気がしている。自由に想像の世界で遊んできた子どもが徐々にその力を失い、想像して決断するというチャンスもなく大きくなる。リスクをもって決断することもないので、そこには責任もない。それは大学時代だけでなく長く続く問題にリンクしており、(そんなことはあり得ないと思わせる)詐欺や、(自分が見えている範囲だけが一般的であろうとする)差別の問題につながっていく可能性がある。

音楽を通じた想像力のトレーニング

音楽の話に戻そう。音楽を聞くことが想像力の活性化に繋がるという実感は、実はあまりない。ただ日々聞いている音の中に「好き/嫌い」があり、人はそれを「居心地の良さ」だったり「リラックスるする空間」のように感じている。これは見えないけれども、わたしたちが音を選択しているからなんじゃないかと思っている。好きな音ばかりじゃなく、無意識に耳に入っているものも含めて選択をしている。対人であれば、例えば電車で隣り合った人の雰囲気が「嫌だな/好きだな」というような感覚は蓋をされているし、それを公衆の面前で公開することもない。音楽であれば好きであれば聞き続けることができるし、嫌だと思ったら消せば良い(消せるものなら)。音に敏感な子どもと人込みの中を歩くと、それだけで「疲れた」と言う。それも当然で目と違って、耳は閉じることができないし耳はどんな音も受容しつづけるわけで、それが重なったら疲れるに決まっている。見えない音を頭の中でイメージしたり消化する作業は、恐らく誰でもやっている。聞いてきた音楽が鼻歌で出てきてしまうというような体験は、頭の中でそれが再生されているからで、蓋をしても出てきてしまうほど、頭の中での音楽は日々活性化し増殖している。だから聞いている、もしくは耳に入ってくる音に少しだけ敏感になって、それらを意識的に選択してみるだけでも、頭で何かを想像する力につながるかもしれない。そして、自分が好きだと思っている音の少し先まで足を延ばしてみて、自分の「好き/嫌い」を遊びの中で探っていくことは、日々の選択力のトレーニングになるのかもしれない。音楽のサブスクで、AIにまかせっきりじゃなく、自分で音楽を決めてみるでも良い。それか音楽と思っているものだけじゃなくて、その場にある全ての音に自分の感覚で〇×をつけていくだけでも良い。そうやって、見えない音を自分の感覚で選択していく。それで誰も傷つくわけでもない。もうちょっと踏み込んでみたい人は、その中の良いと思った音を自分で作ってみるのも良い。ある景色を写真で切り取ってインスタでアップするぐらいの感覚で、耳で良いと思ったものを切り取って脳内で再生してみる。そんな簡単なことでも良い。頭の中だけで、何かを想像するのは容易くない。特に環境の中にある名前のない音はほかの空間に動いてしまうだけで、消えていってしまう。だから一時間前の空間の音をちょっとだけ思い出してもらうだけで良い。一時間後の音がどんなものであるか、そんな想像も面白い。こういうエクササイズが作曲の根本的な力を試すために、実はそんなことが大事だったりするんじゃないかと思う今日この頃。

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