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見えないものと見えるもの

プロジェクトが混線してるのと頭を整理するために書いてみようと思う。作曲について。

「作曲をしています」というといつも似たような質問をいただく。例えば「作曲のレッスンってどういうことをするんですか」。専門的な立場の人からは「これまで受けて一番良かったのは、誰のどういうレッスンですか?」。

今でこそ「教える」ことのほうが増えてきたが、10~35歳くらいまでは「教わる」ほうだった。25年くらい「教わる」をやってきたので、自称プロ学生だ。大学で年単位で教わってきた師匠以外にも、ワークショップや講習会に参加してきて、恐らくレッスンしてもらった先生の数は30人以上になる。

受けてきたレッスンの種類にはいくつかあって、自分なりに整理してまとめてみると、大きくわけて以下のような感じ。

❶テクニックー創作上のテクニックについて教えてもらう。
❷イメージー考え方や思考について教えてもらう。
❸生活ーどうやって作曲家として生きていくか教えてくれる。
❹文化ー音楽の外側について教えてくれる。

自分自身が「教わる側」から「教える側」にシフトチェンジしているので、整理しながら上記のレッスンについてもう少し掘り下げて書いてみようと思う。

テクニックを学ぶということ

作曲のレッスンでは、楽譜を持っていく。楽譜が書けていないときはスケッチとか、スケッチすらないときはアイディアとか、アイディアすらないときは何も持たずに行くこともあったが、そういう時は別の作曲家の作品を持って行って質問をしたり、分析している作品を持って行って先生と話をしたりしていた。例えば楽譜が出来上がっていたり、少なくとも作品の中でやりたいことがはっきりしていて、でもやり方がわからないという場合は、これまで発明されてきたアイディアや方法について教えてもらうこともあった。そのケースでは教えてもらった方法論で実際にやってみて、自分がやりたかったことと差異がないか見つめていく。わたしの場合、先生に教えてもらってやってみた結果、その方法論だと自分自身が描いていたところには全くたどり着けないことが早々にわかり全てをあきらめた頃に、自分のやり方を突如閃くというような道筋でこれまで技術を獲得してきた。それは手を動かした結果獲得したものであるので、このプロセスが無駄ではなかったと思う(思いたい)。

ここでわたしが「技術」といっていることの、実際的な内容について触れておこうと思う。それはそんなに難しいことではなく「音(もしくは何か)をどう決めるか」の一点にある。ほかの作曲家の作品を分析するのは、その人が作品上やりたかったこととその人がどう「一つ一つの音の選定をしたか」ということの関係性を見たいからだ。ある種のレシピみたいなもので、方法論そのものにもポテンシャルがあり、少しのアレンジで全く別のメニューが出来上がるわけなので、方法からインスピレーションを得ることもあった。

「技術」を獲得する。ただその引き換えとして別の問題点が浮上する。やりたかったことの上に技術を獲得したのか、技術を獲得した結果、何かができあがったのか。この順番によってやりたかったことが技術に引っ張られるという状況に陥る。ある種「技術」が自分を超えて主体性を持ち始め、それが音楽を進めようとする状況になると、何をやっているのか自分自身では追えなくなる(AIみたいなものか)。技術を自分の箱の中に収めていく必要はないが、技術に自分が「使われない状況」にしておくという意味では❷のイメージと技術は相互関係にある。特にわたしは前述の通り旧来のやり方がどうにもはまらず、誰かの方法論を使うことで何かを作り上げることが苦手だったので(こういうことが得意な人もいる)、❷の考え方を変えてもらうレッスンはとても役になった。

見えないイメージへの誘導

作曲上のイメージというと「この作品は〇〇のイメージで」のような感じで、音のイメージだとか楽曲の雰囲気とかをレッスンで扱うことのように思うけれども、わたしが受けてきたレッスンでは、それは違うものだった。

ここからは今わたし自身が悩んでいることにもつながるのだけれども、創作上のイメージの問題は自分が何を「音楽」だと思っているかということに尽きる。その人によって「音楽」の幅が違っていて、聞いてきたものの種類や数、生きてきた環境や見てきたものによって、見えている「音楽」は異なっている。「音」と「音楽」の違いについて友人たちと話したこともあるけれども、「音」が単体であるのに対して「音楽」には関係性がある気がしていて、この関係性というのの中には一つ一つの音たちの関係性だけでなく、社会であるとか文化的コンテクストだとか何か「読めるもの」が存在している。因みに幼い子どもが習っていない漢字を飛ばし読みするみたいに、そこに存在していても読まれないものがある。読むことと存在することは異なる。

わたしは子どもたちの耳のトレーニングをしたりすることを仕事にしているけれども、聞こえなかった音がある瞬間聞こえるようになるという体験がある。合唱などしていても「ほかのパートを聞いて」というような指導があるけれども、音楽を専門的に学ぶというのは聞こえなかったものが聞こえるようになることの連続だ。聞こえなかった時というのは、それがあるかどうかもその存在自体が見えないものなので、聞こえない人には完全に「ない」ものとして認識されている。聞こえるようになるとそれは確実に「ある」。聞こえるようになるまでの方法は、その手掛かりとなるラインを追っていくとか、色々あるけれども、一度聞こえるようになったものは聞こえなくはならない。小さな子供たちを教えていて、この「昨日なかったもの」が「ある」に変わる体験を日々重ねていくことが大事なのではないかと思ったりする。見えないものを信じるには、実際的な体験が必要だからだ。

作曲のレッスンでも同じように「見えない」を「見える」にするためにどうするかということをやる。それがイメージのレッスンの本質だと思う。恐らく演奏のレッスンより言語による問いかけが多く、すぐに会得されるようなものではないけれども、それをやっていく。以前実際にレッスンで言われたこととして「この音楽(自分の作品)で語られていることの一部しかあなたは理解していない」と言われたことがとてもショックで、今も心に残っている。音楽というのは自分より先に行っている。自分はそれについていけていない。書かれていることの本質は自分が見えている先にある。それが見えるようになるにはどうしたらいいのか。技術を学ぶだけでは身につかなかった。インターネットにも本にも書いていなかったし、それはわたしの場合、ひたすらじっと待つということだったけど、ちゃんと本質を手の中に収めてからは実際行動しながら、少しつかんだものの実態を確かめに行ったりしながら徐々に手に入れていった。

生活から教えてくれる

こういう切り口でレッスンする人もいた。生活そのものをどうするのか。仕事として作曲を成り立たせるための知識や経験を分けてくれる。それは実際的なことも含めて、こういう態度で演奏者と接したほうが良いであるとか、ふるまいそのものを教えてくれた。とても役に立って特に楽譜からは学ぶことが出来ないので、実益があるものだったと思う。反面教師というのもあって色んな人のリハーサルに行って、うまくいかなかったときも勉強になった。これはしたらダメだなと思わせてくれたし、とにかくリハーサルに行くのは経験値が上がる。

文化を教えてくれる

西洋音楽を東洋人がやるというので、その技術は表面的になぞることが出来ても、その根底にある感覚がつかめなかった。かといって日本音楽が感覚的にわかっているかというとそうでもない。わたしが理解できると思ったのは、どちらもある種の既に(何らかの意図で)作られた構造の上に出来ているものだということを認識してからだった。構造自体はわるいものではない。名前のない概念を階層化してそれをわかる化する方法論の一つだと思う。ただし、その構造を何のために作ったのかがわからないといつまで経っても表面を撫でているだけで終わってしまう。レッスンでは技術や内面の示唆を与えてもらうだけでなく、その文化の本質について触れることがある。彼らが良しとしているものは何で、どういった理由で良しとされているのか。これは、その土地の中心にいない者だからこそ思うことで、彼らにとっては当然なことでもわたしにとっては当たり前でない事柄を、「先生それはどうしてなんですか」といちいちつっこんで訊いていく。「それはそういうもんだから」という先生もいたし、それについて一つ一つ丁寧に説明してくれた先生もいた。

わたしが音を選ぶときに「平均律以外の音が使われていないのはなぜか」と問いかけをくれたのはGeorg Friedrich Haasだった。「このフレーズにはリズムが必要ですか?」とか「なんで拍子が必要なんですか?」とか問いを投げてくれた先生もいたし、それらの質問の本質は先ほどの「音楽とはこういうものである」と思い込んでしまっているわたし側にあった。西洋音楽の側は「音楽はこういうものである」としてからも、「自分たちが決めた音楽の範囲」を自由に超えて変化させているのに、我々東洋人は西洋人が作った「音楽はこういうものであるべき」に、いつまで経ってもとらわれ過ぎてしまっているのかもしれない。これこそ「ないもの」を幻覚として見続けてしまっている感覚で、これは置き換えると「現代音楽はこういうものである」にも当てはまる。そこにはもう「現代音楽」はないのに、言葉だけが存在している。

ないものとあるもの、見えるけど見えないものと、見えないけど確かにそこにあると感じられるもの

ということで、「ないもの」が「感じられる」を体験する、体験してもらうにはどうしたらいいかを考えている。とうになくなっているのに形骸化した何かを権力とか構造の中で保とうとすることや、逆に見えないけど、そこに確実にあるものをどうしても「ない」と言い張ろうとすること、もしくはないことにしたくて「ない」と見えないところに追いやってしまおうとすることに対して、音楽で何かができるだろうか。

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