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ゼロの音楽の実践ーはじめ塾での活動備忘録を兼ねて

春休み中に家村佳代子さんと永岡大輔さんに教えて頂いた、小田原のはじめ塾に招いた頂いた。作曲のワークショップをやらせてもらえるということで、二泊三日みっちり子どもたちと接した。

子どもたちが作ったアニメーションの音楽を子どもたちと共に考えてほしいということだったけど、最終的に作品になるかどうかは置いておいて、音を一から考えることをやってほしいということだったので、「ゼロの音楽」をテーマにすることにした。

音楽の歴史は前の時代で行われていたことに対するカウンターカルチャーとして発展してきた経緯がある。過去に作られた音楽が次の時代には異なる感覚で受け止められ、そうじゃないものがうまれていく。この記事では一時的にこれらの西洋音楽の歴史上にある音楽を「あるもの」から今を作るという意味で「一(いち)の音楽」と呼びたい。「ゼロの音楽」は一から音楽を作る体験ではなくて、ゼロから音について考えてみるワークだ。もしかすると作曲のワークショップのありかたとしては、物足りなさもあるかもしれない。自分が知っている形ある「音楽」を作るということからは遠い。ただ、わたし自身がこういう方法で音を捉えているしそうやって作曲をしてきたので、音を聞く柱になる部分をどうやって子どもたちとシェアできるのか、考えることにした。

ワークショップでは今まで勉強したりしてやってきたことと、自分が体験したことを半々くらいで試してみることにした。信州でこどもたちとやってきたことも織り交ぜた。まずは子どもたちに音の存在について強いることなく遊びの中で体験してもらうのに、座って立ち上がるときの音をただ聞いてもらうワーク、列になって一枚の紙を順々に渡していくワークをやった。教育現場などでも取り入れられているマリー・シェーファーの「音さがしの本」を参考にした。

普段聞いている音をとりだして、ゲームの中で聞く耳を作っていく。子どもたちには楽しみながら少しずつ聞くことに慣れていってもらう。「静かにしなさい」と言われて作る沈黙ではなく、小さい音を主体的に聞こうとすることで生まれる沈黙。子どもたちにとって沈黙は簡単なことではないが、遊びの中で突如生まれる沈黙ほど美しいものはない。

目に見える運動は、小さくても見えていれば聞くのは容易い。しかしながらゼロの音楽は必ずしも見えるものだけではない。その後に子どもたちには見えない音を聞いてもらうワークとして自分の身体の中で鳴っている心臓の音を感じてもらった。人間は生きているだけで音を奏でている。一番近くにある音の存在を感じてもらいたかった。

はじめ塾の主の活動場所は屋外であると聞いていた。子どもが外に放たれた時の開放感。室内での活動を早々に切り上げて、その後は外でワーク。いつも通りイヤークリーニングを行う。高い音、低い音。遠くの音、近くの音。自然の環境の音はどこを切り取っても美しい。その音をちょっとずつ異なるアスペクトで聞いていく。言葉のかけ方で一つの音が異なるものとして聞こえてくる。だんだんと音を聞く耳が細分化されたところで、子どもたちにグループになって、それぞれ異なるポイントでイヤークリーニング+採譜してもらうことにした。環境の音を採譜するのはちょっとしたコツがいる。今回はあまりたくさんのヒントは出さずに各々の方法で書きだしてもらうことにした。ここの声がけはいつもながら難しい。音と音を出しているオブジェを特定せずに、音を音として認識してもらいたいところだけど、大抵は鳥の音なら鳥と描く、それが当然であると思う。もう少し抽象化した状態で音を捉えてもらうように、次回は考えたい。

その後は聞いてきた音をそれぞれのグループで再現してもらう。音を聞いた空間とは違うところで、メディアを使って表現する。音楽の基本であり、そこには作り出す面白さがある。グループで活動することで、同じ音が他の人にどう聞こえていたかを知ることもできる。同じ音でも一人一人異なる耳で聞いている。どう聞いていたかは頭をぱかっと割って見せることもできないわけで、何とかしてシェアし合う。グループでは異なる年代の子どもたちが集まっていて共通する概念や知識も異なるわけで、そのアンサンブルは他人と見えないものを共有する社会の大事な部分と重なっている。一日目はそこで終了。

二日目からは本編のアニメーションに加える音創作に移った。一日目で一つ一つの音を聞く耳の下地はできていたので、自由に子どもたちの発想に委ねることにしていた。一日目の夜にアニメーションを上映して確認してあったので、最初に少しだけヒント(ヒントは三つで、持続音、周期音、瞬間音という三つを探してもらうようにお願いした)を出したけど、後は子どもたちの想像力に任せた。創作前に一つだけ短いワークをやった。好きと嫌いをどう感じ取るかという、とても簡単なもので、以前ダンサーで振付家の敷地理さんのワークショップで教わったものを応用した。まずは二つの異なる音を聞いてもらって心の中でどちらが好きか決めてもらう。その後に隣にいた子同士で握手をして「もう充分感じ取った」と思ったタイミングで手を離してもらう。その後にもう一度同じ音を聞いて好き嫌いを決めてもらう、それだけのワーク。好きとか嫌いは普段社会的な構造の中で決まることが多い。個人の決定権があるはずの好き嫌いもまず先に理由を考えてから無意識にそれを決断することが多い。ここでは感覚的に判断するために身体的に触れ合うことで変化する感情に気づいてもらおうと思った。そんなこんなで子どもたちの創作ワークがスタートした。

ある程度は想像していたが、子どもたちの一音の創作意欲はその予想を超えていた。一音を作るために大きな石を抱えて山を下っていったり、協力しあって水を汲んで落としたり、音が持続のためのマテリアルではなく、一つ一つが体験であり、体験の結果出てくるものが音だった。これは「体験することで音になる」を言葉のまま、体言したようなものだ。音の師匠は子どもたちだった。

作られた音は子どもたちの指示で、細かく映像に挿入されていく。子どもたちの意志によってきちんと選ばれて、0.1秒のずれも慎重に吟味されながらそこに存在していく。作られた音が選択された場所に配置されていく。この作業がほぼ半日で行われた。子どもたちの意欲に圧倒されながら二日目の夜が過ぎた。

三日目は発表だ。映像に挿入された音に加えて、ライブで演奏されるものもあるハイブリッド形式の音発表となった。既存の音のタイミングはフィックスされており、その場で演奏されるものはもちろん生であるので、演奏は簡単ではない。生と録音で音量の差もある。子どもたちには短時間で、その辺りの感覚をつかんでもらって発表となった。

子どもたちの発想には限界がない。「こんなことをしたら〇〇だ」とか「古い」とか「わかってもらえない」そんな感情もふっとばして、原始的な野性味あふれる表現が溢れた作品になった。それが音楽なのか、演劇なのか、あらゆる境界線を子どもたちは軽々と飛び越えてくる。瞬発力があって生きている濃度が違う。こんなに生きていることはvividで、キラキラしていたんだろうか。ついつい頭でっかちに音楽史の本の活字を追っていた自分自身の頭がぱかっと開くような感覚がした。


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