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体験することでようやく音になる。

わたしはアルバイトといえば家庭教師か短期の派遣か数えるほどで、後悔しているのだが、唯一大学卒業の頃に長くアルバイトをさせてもらったのがトーキョーワンダーサイト、いまのTOKASだった。音楽系のスタッフがいなかったというのと、当時から音楽家を招いたワークショップを学校外でオーガナイズしていた経験もあり、恩師のつてでアルバイトとしてワンダーサイトに入ることになった。そこで知り合った先輩アーティストのみなさんとは長く交流があり、今でもわたしの創作の源になっている。

音楽家の間でも作品について率直に意見をもらう機会が、時代もあってか少なくなってきたように感じるが、先日ワンダー時代のボスであった家村さんから作品について的確な感想を頂いて、とてもそれが嬉しかったので、忘れないように、これまでの経緯も含めて書いておこうと思う。家村さんは、noteではクリエイティブ・ペアレンツをテーマにインタビューをされていたり、幅広いアーティスト活動をされている。

ワンダーサイトに出入りしていたのは確か20歳前後で、作曲がどういうものか全くわからず、何をしたらいいかもわからず、とにかく人と会って話したりコンサートやワークショップのオーガナイズをしてみたりと、作曲以外の周りのことを忙しくやっていた。恩師の影響で「若い頃は良いものも悪いものも浴びるように聞け」という主義のもと、海外の音楽祭に頻繁に行って最新の音楽は聞いていたけど、自分が書いているものや日本の現代音楽界隈で良しとされているものとのギャップもあって苦労していた。その上同年代の作曲家が軒並みコンクールで賞を受賞する中(同年齢で言えば、小出稚子ちゃんや山根明季子ちゃん、少し上に稲森安太己さん、少し下に桑原ゆうちゃんなど、当時コンクール常連のメンバーがいた)、何を出してもひっかからず(作曲がどういうものかわからないんだから当然だろう)、ましてや作曲以外のことが忙しすぎて作曲家というより企画屋だと認識される始末で、この先作曲家としてやっていける気も全くしなかった。周りの評価がついてこないというより、何が評価で自分は何を軸とするのか、要するに自分が何者なのかがわからず右往左往していたというのが正直なところで、やっていること自体は今と変わらないのだが自分の内情としてはとても苦しい時期だった(苦しかった20歳前後に書いた作品を成仏させるために貼っておこう)。

ワンダーサイトでは当時アンサンブル・モデルン・アカデミーという、今考えると超スーパーヘビーなイベントを開催していて、そのアカデミーに応募したことがあった。選ばれた作曲家はモデルンに演奏してもらえるというので勇んで応募したのだが、案の定選ばれることはなかった。そして選考結果がわかったその日家村さんから呼び出しがあって「渡辺さん、これじゃだめよ」と言われたのだった。

ダメなことはわかっている、どうしていいかわからない。ぐるぐるしているわたしに「だめだ」とはっきり言ったのは、当時家村さん一人だった。数年後全部捨てて着の身着のままで(割と本当に荷物が少なかった)オーストリアの田舎町であるグラーツに行った。誰も知らない、つてもないところで一からやり直すことになった。グラーツ音大は今でこそ現代音楽界隈で割と有名な大学ではあるが、当時は全然情報がなくBeat Furrerが推薦状を書いてくれたというだけで単純に行くことにしたわけだけど、大学に月数回しか来ないBeatが生活のことを教えてくれるわけでもなく、当時は英語もドイツ語もできない中で手探りで生活を始め、月200ユーロの学生寮でほか3人と共同生活をすることになる。

当時の自分自身の苦悩は、これまで自分の耳で収集してきた音や美学が他人のものなのではないかという漠然とした不安から来るものであった。師匠の音楽が好きでよく聞いていたこともあり、その間合いや色合いから強く影響を受けていた。しかし二番煎じであることは音を聞くまでもなく作曲の時点で借り物であることが自分でもわかっており、他人の音を書き続ける苦しさで、音一つ書くにも疑念が沸き、これはどこのだれのものだ? どこから盗んできたんだ? と一音も書けない時期が長く続いた。書かないと上達しないのに書けないというわけだから、とても苦しい。

グラーツに来た当初、まだ他人の音を引きずっていたが、そういったコンテクストを知らないBeatには全く違う観点からレッスンしてもらうことができた。とはいってもレッスンではわたしの音楽についてはちょこっとだけ、殆ど彼の創作の話だった。「今こういう曲を書いてる」「昨日こういう映画を見た(大体日本映画で、Beatは小津が大好きだった)」「こういう本が面白かった」そういう話を聞いてたまに質問をする。そんな感じのレッスンで、これまで日本で受けてきたものとは違っていた。思い返すと、その頃わたしは作曲家を目指していなかった。作曲家は前述の通りあきらめていて、日本で現代音楽のアンサンブルを作るためのノウハウを学ぶためにKlangforum Wienが大学講師にいるグラーツ音楽大学を選んだのだった。なのであまり肩ひじ張らずレッスンでもBeatが教えてくれた本や映画を見てみたり、図書館にある楽譜やCDをひたすら聞いたり、割とのんびりと過ごしていた。Beatの初演があれば遠くまでリハーサルを見に行ったり近くの山を登りにいったり、そんなかんじで東京で企画屋として忙しくしていた日々とは打って変わって、何もないところに来たので無駄なことも多くしていた。文字通り何もしないを実践していた。リハビリのような時間だった。

この時期は、これまで「良い」と言われていたことを一から疑うことに時間を費やした。もともと田舎育ちだったわたしには多様性という文字はなかった。これが「良い」といわれるものを素直に良いと思い、自分の肌に合わないことも良いものだと受け入れようとしていた。グラーツでは何もかもが違っていて、だからそれまで良いとされていたものに対して、「それって本当に良いんだろうか」「なんで良いとされていたんだろうか」それを一から考えることが難しくなかった。その時考えていたことは「場所が変わると身体性も変わる」ということで、日本で日本の土を踏みながら考えてきた身体性と同じ感覚では書けないということをレッスンで話した記憶がある。それは空間で音響が変わるという実際的なこと以上に、どこでどういう土の上で生活してきたかによって、その人が捉えている耳の感覚が違うだろうといった話だったと思う。その土の上で何を捉えるか、色んな土の上で育ってきた人の耳に何をどう届けるべきかということを考えていた。この抽象的な問いに対して、わたしは一旦自分の身体感覚や耳の記憶を排除することにした。それまでは耳に頼った創作をしてきた。主にピッチの構造に依存した作曲法を取っていた。気持ち良いと思えるピッチの順番や音の重なりを連ねることが作曲だと思っていた。それを一切やめてピッチ構造は音階をただそのまま使うだけとか、この音だけを使うとか便宜上決めてしまって、そのシンプルな音素材をいうなれば洋服の生地のように見立てて、それをどう裁断するか見せるかに焦点を置くことにした。Beatが作る音響が洗練されていて大好きだったけど、彼も同様に音程に執着して一つ一つを決めているというより、シンプルなルールに乗っ取って音を決めていたこともあって自分もやってみることにした。この方法において音の高低自体は悩まずに済む。自分が一番こだわって「これこそが作曲だ」と思っていたものを潔くすっぱりと切り捨てた。

この頃わたしはモノの見え方に興味があって、「人は何も見ていないのに、それがそこにあるとどうして疑わないんだろう」と思っていた(考えてみると結構気味が悪い疑問かもしれない)。隣の部屋に置いたものがそのままそこにあると信じられる根拠はなんだろうとかそういった類の疑問だった。これは差別構造とも関連があって、〇〇だと思い込むとその一面しか理解されないけれども、大きな主語の中にそれだけでは片づけられない多面性が隠されている。それらの概念と実際の動作と結びつけてみると、人は目を保護するために「まばたき」をするけど、一瞬の暗闇である「まばたき」によって私たちは日頃から「何も見えない」を体験していて、見ていないときには残像を信じている、要は想像しているんだろうと思った。日常はまばたきによって半分はフィクションであって、その見えないところが色鮮やかになれば日常自体が変わるかもしれない。だから何も聞こえないところを作って、人の想像力で色鮮やかに聞ける音楽もあっていい。穴あきの曲だって人は多面的に聞けるはず。そう思ってこの時期は「穴」あき構造を持つ曲をたくさん書いている。

この時はもう音程は自分の範疇になく、音程以外の様々な要素をコントロールするための技術を磨くためにいそしんでいた。あんなに自分の中で大事に温めてきた音程の中に、実際はわたし自身が決断してきた要素があまりなかったということにも気づいた。自分が執着していない要素のほうが、案外と手放しで学習できるものであって、良し悪しを判断する前に取り入れてみて、うまくいかないものは横に置き、うまくいくものは取り入れてみたりしながら自分自身のスタイルを作っていった。自分が取り入れにくいといつも感じていた音楽の構造もすっぱりあきらめた。時間芸術である音楽の時間構造をあきらめるというのは覚悟がいるものだったけど、時間を構築して大きな建造物を作ることはわたしの本質ではないと思った。小さなものをより細かく見て細工をしていくような作業が好きだったので、より小さなものをルーペでのぞき込むような創作の方法にシフトしていった。

一つの音をルーペで覗き込みながら、そこに細工をこしらえていくような創作をやっていて自分としても作曲が手に戻ってきたような感覚があった。わたしはピアノは好きだったけど、早いパッセージを弾くことよりゆっくりと音色を作りこんでいく作業が好きだった。小さい頃に音を作り出していた楽しさをもう一度取り戻したような感覚があった。そして2013年頃。留学をして5年ほど経った頃だった。大学院の修了に近づき学校とオペラ座が共同で行っているオペラプロジェクトに選ばれて作曲をしている頃、第一子の妊娠がわかった。運よくつわりもさほど重くなく、学生からの切り替えで保険外の妊娠でその点は冷や汗をかいたが、何とか出産を終え、産後一か月でドイツへ移住してからが大変だった。

土地が変わると身体が変わる。自分でそう感じたにも関わらず、ドイツ語圏であるし、そこまでの大きな違いはないだろう、そう思っていた。でも実際に出産後、赤子と新しい土地で学生として生活するのは簡単ではなかったし、オーストリアで良いとされていたものもドイツでは通用しなかった。同じドイツ語圏でも、この二つの国のシーンは大きく異なる。学生が書いているものも違うし、そもそもドイツ語だってオーストリアのテンポ感とは違った。乳児といえば度々検診があったり、第一子というだけで大変なのに、外国で赤子を見ながら創作を軌道に乗せるのは楽ではなかった。また書けない時期が来てしまった。前は精神的に書けなかったけど、今度は時間がなくて物理的に書けない。物理的に書けないことで精神的にもどんどん書けなくなってしまう。

ドイツでは、ケルン音楽大学で当時教授だったヨハネス・シェルホルンに毎週レッスンを見てもらっていた。Konzertexamenという日本の博士課程に通っていたわたしは必修授業はもうなく、これが唯一大学に行く時間であり、唯一赤子と離れる時間でもあった。そこでシェルホルンにこう言ったのだった。

「先生。赤ちゃんがずっといて、書くスペースも時間もありません。どうしたらいいでしょうか」

そのあとシェルホルンが言った言葉が忘れられない。「今まで持ってきたものを一旦手放して。手放しでもなくなりません。横において今できることをやってみよう。真っ白な紙に線を引いてみることからやってみたら」。日本で握りしめてきた音程をオーストリアで手放し、時間構造もあきらめ、これまで良いと思ってきたものも全て捨ててきたのに、まだ手放すものがあるのか。そう思いながらシェルホルンの言う通りに紙に線を書くことから始めた。紙に線を書くとそこに見えない構造が生まれる。その構造は自分自身がこしらえたものではないけど、そこから音楽が見えてくる。どんなものでも音楽に変換することができるのだと、自分が技術だと思ってきたものを手放すことで、全てが音になり得るを再確認した瞬間だった。シェルホルンは間接的にヒントになる言葉をたくさん投げかけてくれる作曲家だ。「作曲とはこういうものである」を少しずつ崩してくれる。肌を剥がし新たに再生させるピーリングに近い。しんどさもあるけど再生された感覚は一生モノであり、多くの人にシェルホルンのもとで学ぶことをすすめているのも、こういう理由からである。

ドイツに移住してからは家が見つからずに数年で3度引っ越しをした。もともとアパート難な地域ではあるが、日本のようなシステムではなく、自分自身でアパートに応募し、家主が次の住民を選ぶような形であったので、学生かつアジア人移民であるわたしたちが獲得できるアパートは殆どなかった。詐欺も多く横行していて、実際にお金を取られたこともあった。ビザを申請する移民局には連絡をしてもなかなか返事が来なかったり、本来もらえる権利がもらえないなど、生活上で移民としての不利益をこうむりながらも、音楽シーンでは「女性×アジア人」として取り上げられることもあり、その二つの間で不条理を感じていた。その頃は以前よりコンクールでもひっかかることも増え、それなりに忙しく創作はしていたものの、現代音楽シーンで売れることの意味合いや「売り方」を理解してその上で勝負でもない勝負を強いられることの無意味さも痛いほど感じていた。わたしはマイノリティとして「マイノリティ」を売りにしない方法で、この地で創作をしたいと思った。それができないならやめてもいいとまで思っていた。それは、そこに私の本質にないからで、これまで必死に捨ててきたものをもう一度拾い上げるようなことはしたくなかった。要素をぎりぎりまで切り詰めてきたからこそ、それをすることで全てが壊れてしまう気がしていた。

自分自身の感覚の中にないものは一旦全て排除し、自分の足元から「これが自分だ」と思えるものだけを、少しずつ拾い上げるような作業をしてきた。それは石を積んでいくように立派な建物を建てるようなスピードではなくて、石を砕いてその中にある砂鉄を少しずつ探し出すような感覚で、出来上がったものは10年合わせても小さじ一杯分程度だったけど、それを大事にして2021年に日本に帰国することになった。

そしてその頃書いた作品がアンサンブルノマドの委嘱で作曲した「都市と記憶」である。この作品は、わたしが十年かけて色んな都市で体験した音響の記憶がとても短いフレーズで出てくる。構造という構造はなく、一つ一つの音が連なっていくだけの音楽である。音の大きさも小さいし高揚するような要素もなく、大曲とは言えないが、それでもわたし自身が選んできた音だけが書かれているという意味では満足している。

音楽作品に対する率直な感想というものを見なくなって久しいが(音楽における批評というものが最近めっきりない)、特に長年活動を追ってくださっている方から頂くコメントというのは、何にも代えがたい。そして何よりワンダーサイト時代にお世話になったみなさんと今でも一緒に活動ができるというのは何にも代えがたい喜びである。これから始まる新しいプロジェクトにワクワクしながら、信州の山から音につなげるために今日も散歩から始めようと思う。

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