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誰の未来にも、幸せな乾杯の時間を。

ゴクゴク。
ゴクゴク。

「ほら!もう水筒の中からっぽ!」

中身を飲み干した水筒を誇らしげに見せてくる。家から持参した1リットルの水筒はあっという間に空っぽだ。

「見て!まだとけてない!」

うわ、いいなぁ〜!と氷が解けずに残っていることが、子ども世界ではステータス。

ゴロンゴロンとした氷が数個残る水筒に、補給用の麦茶をトットットッ…と注いでいく。

太陽の光はジリジリと強く、日向を歩くと途端に呼吸が上がる。この夏は外出機会が少なく、体の準備ができてない。遊ぶ場所が日陰で救われたが、元気すぎる太陽を少しうらめしく思った。

しかし太陽より元気なのは子どもだ。大人が休憩中へばってると「ねぇ、次何すんの!?」とそわそわする。5分もじっとしてない。彼らのエネルギーチャージは麦茶で十分らしい。


「お茶まだある?」

また一人水筒が空になった。6年生のあーちゃん(仮名)だ。2年生から1か月に1回くらいの付き合いで、もう4年。見た目はそんなに変わらない。

変化を感じないのは、たぶん頻繁に会っているからだ。きっと2年生と6年生の姿を並べたら、4年の歳月の長さを感じるのだろう。

「まだまだあるよ。今入れるよ」

あーちゃんが手に持つ水筒に、麦茶をトットットッ…と注いでいく。

「なんかお酒みたい」

私が麦茶を注ぐ様子を見て、あーちゃんが言った。

「そうだねぇ。大きくなったら一緒に飲みたいね。あれ、あーちゃんがハタチになったら私はいくつなんだろ…10年後くらい、だっけ?」

ははっ、と、あーちゃんは笑った。

「10年もないよ。8年かなぁ」

10年も8年も変わらないよ、と言いそうになったけど言わなかった。子どもと大人で2年の重みは違う。

いつかあーちゃんと乾杯できる日が来るんだろうか。
麦茶じゃない麦の飲み物で。

別に麦の飲み物じゃなくてもいいんだけどね。

今は働いているNPOに出会ったのは、大学2年生の5月だった。週末や長期休みを利用し、小学生~中学生を対象に日帰りや宿泊の遊び、体験活動を企画運営している。

単発ではなく継続的に場と機会を創り、親や先生以外の立場から子どもの成長を支えることを大きな目的にしている。

ボランティアと働いている期間を含めると、携わり始めて12年ほどになる。その間、たくさんの子どもが大きくなっていった。中には成人した子もいる。みんな子どもだったのに、気づいたら大人になっている。


子どもはカンパイが好きだ。

乾杯している大人の姿を見ているんだろうか。
楽しそうに見えて、やりたくなるんだろうか。

キャンプにて、お風呂上がりのジュースタイムは子どもにとっても最高らしい。カンパイして「ぷはーっ!」と大人顔負けの飲みっぷり。

寝る時間が迫ってもおしゃべりは止まらず、ある高学年以上チームでは子ども恋愛相談が始まっていた。

「好きなら好きってちゃんと言った方がいいよ」

中学生のリアルなアドバイスに、小学生が「だよなぁ….!」と尊敬の目を輝かせる。妙な説得力と共感が大人も含めたその場に広がる。


ふと思う。
この子たちは、大きくなっても覚えているんだろうか。

あるキャンプで出会った友達やスタッフのことを。お風呂上がりにジュースでカンパイしたことを。買ったジュースが全然減らないほど、おしゃべりが楽しかった夜のことを。

覚えているかもしれないし、忘れてしまうかもしれない。でも心のどこかに残っていてほしい、と願ってしまう。
そう願うのは、大人のエゴだろうか。

具体的なエピソードじゃなくてもいい。誰かと笑いあったことや、誰かから優しくされたこと。思い出す時に心がぽわっとあったかくなるような、そんな思い出として残っていてくれたらいい。その思い出はきっと、いつかの支えになるから。

桃太郎がイヌやサルやキジに助けられて鬼を退治するように、物語の中で誰と出会うのかが、その先の展開に重要だったりする。

人の人生にも同じことが言えるのではないだろうか。誰と出会うのかが、人生という物語にとって重要なできごとになる。


子どもの人生に登場する人物のことを考えてみる。

親、兄弟姉妹、親戚、友達、学校の先生、学童の先生、習い事や塾の先生、など。



もう少し深く考えてみる。

核家族化が進み祖父母と関わる機会は減り、少子化が進み兄弟がいない子も多い。
地縁も弱くなり(地域にもよるが)、都心部は人口も多く、街を歩けば顔見知りという環境ではない。
自由に遊べる場所は減り、近所の子どもが集って遊ぶことも物理的に難しくなった。

つまり登場人物は減っており、人間関係は小さく狭くなっているといえる。

この環境が良いとか悪いとか、誰かを責めているわけでは全くない。
傾向として、そうなっている。


先日ユニセフ(国連児童基金)が、世界各国の子どもの幸福度ランキングを発表した。日本の子どもの結果の概要は以下。

*精神的幸福度:37位(生活満足度が高い子どもの割合、自殺率)

*身体的健康:1位(子どもの死亡率、過体重・肥満の子どもの割合)

*スキル:27位(読解力・数学分野の学力、社会的スキル)
引用元リンク

身体的健康は1位だが、精神的幸福度は38か国中37位。これが何を意味しているのかは、よく考える必要がある。

背景は一概には言えないけれど、孤独を感じやすい状況で生きている子どもが多いのではないか、と思う。(かなり前になるが2007年のユニセフ調査で、「自分は孤独だと感じている」と答えた日本の15歳の割合は、24か国中トップ。)


孤独は「自分が一人である」と感じる心理状態のこと。大勢の中にいたとしても誰からも受け入れられない、理解されないと感じるならば、それは孤独な状態であると言える。

ただ、先に書いたように人間関係が小さく狭くなっている中で「受け入れられてない」「理解されていない」と子どもが感じているとして、それはその周りの人たちが悪いのではなく、確率の問題だと思う。

家族だから、親子だから、必ず受け入れ合える、理解し合えるわけじゃない。相性もあるだろうし、(誰かの責任ではない)環境的な要因もあるだろう。先生と子どもでも、子ども同士でも合う合わないはある。クラスの友達関係に窮屈さを感じている子もいるだろう。

出会う数が少なければ、その子にとって心から信頼を寄せられる人や、受け入れてもらえる人に出会える確率は低くなる。逆に、出会いの数が多くなるほど、その確率は上がっていくのではないか、と思う。


だから私は、子どもが学校以外に友達ができたり、親や親戚、先生以外で子どもの支え手となる大人が増えていくことは必要なことだと考えている。そうなるように、出会いの機会を創りたい。

私たちのNPOの活動には、多くのボランティアが携わっている。身近なお兄さん、お姉さんとの出会いや関わりの中で、受け入れられる経験、大切にされる経験をたくさんしてほしい。そう思えるように、関わっていきたい。

自分が子どもにとって信頼を寄せる人物になるかはわからない。でも自分である必要はなく、あくまで子どもにとって、好きな人や信頼できる人を見つけてほしい。その確率を高めていきたい。


私ができることは、出会いの機会を創ること。
自分が出会った子どもを、大切にすること。
つきあいが続く限りは、見守り続けること。

自分が好きなことを別に見つけて、活動に参加しなくなる子もいる。必ずしも大きくなるまで見届けられるわけじゃないけど、その子がいきいきと過ごせているなら、会えなくなってもいいんだ。


大きくなった未来で一緒に乾杯できたらうれしいけど、乾杯の相手は私じゃなくてもいい。
その子が好きな人と一緒に幸せな乾杯ができることを、一番に願う。


そんな未来につながるよう、子どもの「今」を支えていく。



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