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人も文章も、替えがきかない唯一の存在。

みんな違って、みんないい。

うん、わかってる。

誰一人として、替えがきく人間なんていない。

頭では、わかってる。

でも、わかることと、できることは違うようだ。

「違いを受け入れよう」「違いを大切にしよう」とは思っているのに、誰かと自分を比べて、自分を卑下してしまったりする。

人の違いは受け入れられるのに、自分と人との違いはどうにも受け入れられない。そんな時期があった。

過去の自分は、誰かと比べては「あの人みたいにはなれない」と落ち込んでいた。誰もその人になれなんて言っていないし、求めていないのに。その人になるなんて、できっこないのに。

先日、あきらとさんのnoteを拝見した。

なにげなく交わす言葉に「その人」を感じるのであれば。
誰もが誰かの完全な代わりには、なり得るわけがない。

あの頃の自分に見せてあげたい。

一つひとつの言葉があたたかい。
寒々とした心にふわりとかかる、あったかい布団のような感じ。

自分にとって「替えがきく」人なんて誰一人いないのに、なぜ自分のことは同じように思えないのだろう?

そ、そう。ほんとうにそう。

人に対しては、みんな違って、みんなそれぞれの良さがあると思える。自分にとって、誰かと誰かが入れ替わっても、まったく何も感じないことはありえない。

それなら、自分だって同じだ。
自分だけが、例外じゃないんだ。
自分だって誰かにとっては、「替えがきかない人」と思ってもらえているはず。そう信じてもいいんじゃないか。

自分も誰かも、みんな替えがきかない人。

だから、「あの人みたいになれない」なんて嘆く必要はないんだ。

その人を尊敬する気持ちがあるのなら、部分的に取り入れていけばいい。
そっくりそのままその人になれないし、むしろならない方がいい。

人にはそれぞれ、替えられない良さがあるんだから。

いろいろな方の文章を読んでいると、ある人が書いた文章と全く同じ文章は、一つとして存在しないことに気がつく。

同じようなテーマだったとしても、書き方が似ていたとしても、「同じ」ということは絶対にありえない。光をあてる角度、選びとる言葉、テンポ感、そのどれもに「その人らしさ」がにじみ出る。

一つとして同じ文章が存在しないって、考えてみたら奇跡だ。

自分が書く文章も、誰かが書く文章も唯一の存在。

もちろんそれを書いている人も、唯一の存在だと言える。

いろいろな文章を読むことは、もしかしたら「多様性」というものをすごく身近に実感できる機会なのかもしれない。

みんな、違うなぁ。
みんな、いいなぁ。

それをごく自然に、実感できる。

「いいなぁ」というのは、必ずしも「賛同」や「共感」を示すわけじゃない。ただ、仮に自分とは考えや価値観が違っても、その人がそう考えること自体は守られるべきもの、唯一の存在だと認められるべきものだ。(誰かを傷つけるような内容以外は)


その文章を書けるのは、その人しかいない。
この文章を書けるのは、自分しかいない。


たくさん読むことで、「替わりのきかなさ」を肌で感じられるのではないか。

そう感じることができたなら、自分に対して選ぶ言葉も、誰かに対して選ぶ言葉も、今よりも少し優しくなれるのかもしれない。


あきらとさん、引用させていただきありがとうございました。


そんなわけで、今日はここまで。

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