子どもとの関わりで大切なことは、子どもが教えてくれた
これまでの仕事やボランティアを通じて、いろんな子どもと出会ってきた。何人くらいなんだろう。1000人は超えるのかな。もっと多いかな。その中には1回きりの出会いも含まれるから、継続的に、あるいは深く関わった子の数は少なくなるけれど。
子どもとの関わりに一つの正解はない。
もっと言えば「正解」そのものがなく、何が正解なのかはその子にしかわからないし、その子自身も今の時点では正解かどうかはわからない。のちのち大きくなったときに、ああやって関わってもらえてよかったと、逆にああやって関わってほしくなかったと、正解や間違いを実感する日が来るのかもしれない。
「かもしれない」なのでわからない。わからないことだらけ。
わからないから、本当にむずかしい。いつも不安や迷いがあるし、ふりかえったときに後悔が残る。
クイズ番組でよくある「ピンポーン!」や「ブブー!」を鳴らしてもらえたほうがよっぽどラクなのではと思う。よかったのか、悪かったのか、自問自答を続けないといけないのは、なかなかにむずかしく、苦しいことでもある。
でもふと思う。子どもに限らず、人との関わり全般において正解はない。よかったも悪かったも自分で考えるしかなく、最終的にはその人にとってどうか、というところでしかない。
なのに「人との関わりに正解はないよ」はあまり聞かれず「子どもとの関わりに正解はないよ」はしばしば聞かれるのは、子どもとの関わりに無意識に正解を求めてしまう人が多い裏返しなのだろう。
そう、子どもとの関わりに正解はない。
からこそ、関わる際の軸は必要なのかもしれない。
1つは興味関心をもつこと。
どういう子なんだろうと知ろうとする気持ちをもつこと、実際に知ろうとすること。よっぽど嫌いで苦手だと思われていなければ、関心を持たれて嫌な気持ちになることは少ないだろう。興味関心を寄せることが関係をつくる第一歩。
もう1つは尊重すること。
その子の存在そのもの、考えていること、やろうとしていること、好きなこと、嫌いなこと、得意なこと、苦手なこと。どんなに自分の考えと違っても、理解や共感ができなくても、そうなんだと受け止める。
そしてあきらめないこと。
関係をつくりたいと思ってもなかなか心を開いてもらえず、しゅんとすることもある。嫌われてるんだなと落ち込むこともある。それでもあきらめないこと。いろんなボールを投げてみる。いろんな方向からドアをノックしてみる。
子どもは大人をよく見てる。この人はどのくらい真剣に関わってくれるのだろうか、自分を受け止めてくれるのだろうかと、いろいろな反応を返してくる。
その中には、ポジティブではない反応もある。きつい言葉を投げかけられると、そこで関わりをあきらめてしまいそうになる。
でも、子どもから本当に嫌われている実感がなければ、あきらめずに関わってみる。ポジティブではない反応は、本当は子ども自身も関係をつくりたいと思う気持ちの裏返しなのかもしれない。
ふりかえると、これらはみんな子どもが教えてくれたこと。
少し前に「最高の教師」というドラマがあって、あのタイトルは、生徒自身が最高の教師であるというメッセージを含んでいると最終回で分かって話題になっていたけれど。
本当に子どもは、いろいろなことを教えてくれる、師のような存在だ。
子どもと関わることはむずかしい。苦しいこともある。
でも、つながって嬉しかった瞬間が確かにあるから。
全員が心のドアを開いてくれるわけじゃない。ちょっとだけ開けてこっちを見ている子、開いたけどまた閉めてしまう子、でも時々開けてくれる子などいろいろ。それでも、つながったかもと思う瞬間が嬉しくて、子どもと関わることを続けてる。
こう考えると、全然「子どものため」じゃない。「自分が嬉しいから」って、自分のためじゃん。
この理由でよいのかなぁと思いつつ、「子どものため」という言葉は少し上から目線で、独りよがりだとも思うから、「子どものため」ではない理由を持ち合わせることができていて、よかったのかもしれない。
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