あとになってからわかる、言葉の重み。
幼稚園をやめるとき、ある先生からあるメッセージをもらった。
そのメッセージをくれた先生は、正直こわかった。そして苦手だった。
幼稚園の中ではいわゆる”お局”的な存在で、目をつけられるとやっかいなことになることもあった。
幸いわたしは学年もちがうし、あまり大きな影響はなかったが、積極的に関わるのはちょっとこわいな…という印象をもっていた。
専門性の高さ。
ただ、保育はすごかった。
長年やってきていることもあると思うが、「専門性が高い先生ってこういう人のことをいうんだな」とひそかに思ってた。
とにかく子どもをよく見ていて、その子がいまどのような発達段階にいるのか、よく理解していた。援助が必要なのか、いらないのか。その子自身の力が育っていくような絶妙な支援。
必要な場面では、厳しさも用いる。もちろん声を荒げたりすることはなく、真摯に、淡々と伝えている。
比較的年配の先生だったが、そんなことは構わずにいつも子どもと全力でかかわり、あそび、ときにふざけていた。
わたしもときどき相談に乗ってもらったこともあったっけ。
正直びくびくだったけど、子どもの利益をぶらさないという点ではすごく一貫していて、だから苦手ではあったけどきらいにはなれなかった。
アルバムの中に。
そして幼稚園をやめるときに。
いろいろな先生からのメッセージを集めたアルバムをいただき、その中にその先生からのメッセージがあった。
子どもたちとの出会いは大きな宝。
笑顔と一緒にいつまでも大切に。
必ずあなたの支えになってくれるはず。
じんわりときた。
宝、そして支え。
そうだよなあ。いいこと言うなあ。と思った。
ただ、そのときはそれだけだった。
このメッセージがもつほんとうの意味は、そのときには理解できていなかったのだと思う。
時間の経過とともに、じわじわと。
時がたち、最近時間があるからか、担任していたときの子どものことをふと思い出すことが多くなっていた。
あの子元気かなあ…とか、こんなことあったっけ、とか。
その当時の写真も見たりして、大変だったことも、でも子どもと過ごした時間はやはり楽しかったことも、思い出した。
わたしみたいな幼稚園の先生になるんだ、と言ってくれた男の子がいて、それがどんなにうれしかったか。いまはもう変わっているかもしれないけど、一瞬でもそう思ってくれたことがうれしかったな。
…とかとかいろいろ回想しているうちに、あの先生のメッセージを思い出したのだ。
ああ、こういうことだったのか。
「子どもとの出会いは宝」で「いつか支えになる」ということの意味が。
自然と気持ちが前を向く。
子どもの顔を思い出すだけで、一緒に過ごした日々を思い出すだけで、なんだか気持ちが前向きになる。気持ちがあたたかくなって、エネルギーがたまっていく感じがする。
そして短い間でも先生として慕ってくれた子どもに恥じないようにするためにも、しゃんとしなきゃという気持ちにもなる。
遠い日の子どもと過ごした時間が、こんなにもいまの自分にとって大切なものになるなんて、そのときは思ってもいなかった。
時間が経過しても、たぶんずっと変わらない。 自分にとっての原動力。
びっくりだけど、あのメッセージのとおりになった。
きっとその先生も、同じように子どもとの出会いを宝と感じ、それに支えられてきたことが多かったんだろう。だからこそ、このメッセージをくれたんだと思う。
子どもとの出会いをこうやって捉えられる先生を、やっぱり私はきらいにはなれなかった。
いまもどこかで先生を続けているのだろうか。年齢的にはもう退職しているかもしれないな。でも元気だったらいいな。
***
子どもたち、ありがとう。
メッセージをくれた先生、ありがとう。
わたしも子どもたちの支えになれていたらいいのだけど、もう忘れちゃってるかもしれないな。
もらったものに比べてできたことが少ないなと、申し訳ない気持ちにもなるのだけど。
これから出会う子どもたちにきちんと返していこう。
いまは、それしかできない。
そんなわけで、今日はおしまい。
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