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毎日書くことも、文章の質も。

昨年の4月30日から、noteをほぼ毎日更新している。

連続記録としては10月末に一度途絶えている。その後も1~2回お休みしたことはある。なので「ほぼ」。更新が途切れるプレッシャーがあるわけではなく、もうここまでくると本当に「習慣」になったのだと思う。

noteを始めた1月は、1週間に1度程度の更新。それが2月になると1記事しか書いていない。そのころ、毎日書くことなんて想像もできなかったし、自分にはできないと思っていた。だから2月は1記事しか書いていないのだろうし、その後、物理的に家にいる時間が多くならなかったら、そのままフェードアウトしていたかもしれない。

その「できないと思っていた」ことが今「できている」。内容はいったん置いておくにしても、毎日書いている。しかも(そこまで)無理せず。書くことが習慣になったとまで言える。「できない」から「できる」の領域へのジャンプ。

できないと思っていたことができるようになるって、よく考えたらすごいよなぁ。「毎日更新ができるようになる」という目標を掲げていたわけではないけれど、小さくても一歩、また一歩と踏み出すことを続けていき、周りの人に刺激をもらい、助けられ、結果的にできるようになったことが一つ増えた。できることが増えるというのは、いくつになっても嬉しい。

一方、毎日書くことができるようになり、習慣になり、もう「すごいこと」と思えなくなっている自分もいる。(これは自分に対しての手厳しさなので、他の人に向けられた気持ちではないです。客観的に見ると、毎日書くことはすごいことだと思う。)

知りたかった最高も 知ってしまえば最低限に
どうしたって満足は 出来ないようになっているみたいだ

「ラブソング」/SUPER BEAVER

毎日書くことは、自分の中で「最低限のこと」になっているのかもしれない。それができなかったときは、できる状態を「最高」だと思っていたはずなのに。できるようになると「最低限」になってしまう。いやほんと、どうしたって満足はできないようになっているらしい。

じゃあ毎日書くことをやめて、一つひとつ質の高い文章を目指す選択肢もある。実際、書くことをやめるわけじゃないけど毎日更新はやめる、という人の理由や動機はそれが多いようにも思う。「とりあえず」更新をやめて、もっと一つ一つの文章の中身を磨くことに時間を使いたいと。

そうなんだよなぁと思う。

きっと次のステップはそこなんだよなと頭では理解する。文章をきちんと推敲してから出す。「とりあえず」「ひとまず」ではなく。そこに時間を割かない限り、文章を書く上での(これ以上の)成長はないんだろうな。

でも時間をかけたところでいい文章になるのか?という点が不安でもある。公開することのハードルがどんどん上がり「良いものができた」という感覚よりも「時間をかけたのに結果うまく書けなかった」と思ってしまう気がして。
それだったら「毎日書くことを続けている事実」=「自分の心を落ち着かせる安心材料」に価値を見出してしまうのかもしれない。あとは、書く習慣がなくなるかもしれないことも怖いな。

総じて「毎日書くことにしがみついている」という状態なんだよなぁ。文章を磨いていくことに向き合わず、逃げている。逃げているとは思いたくなかったけど、たぶんそうなんだよなぁ。

答えが見えない。さてどうしよう。

ただ気づいたのは「毎日書く」か「質を高める」のどちらかしか選べないなんて、誰が決めたんだろうか。確かに、時間が有限であることを考えたらどちらかを選ぶ必要があるんだろうけど、絶対にそうしなきゃいけないとは誰も言ってない。「毎日書きながら質も落とさない」というミラクルなことができないだろうか。

「質」というのはとても抽象的な言葉だ。誰かに評価してもらわない限りは、自分自身で質の上がり下がりを捉える必要がある。
と考えると客観的な質の上がり下がりはいったん置いておいて、ほぼ毎日書くことを続けながらも、「質を下げていない」「妥協していない」と思えるように書くことはできるのではないか。

ざーっと見直していたのを、少しだけ丁寧に見直してみる。
一つひとつの言葉を、本当にこの言葉でいいのかと問うてみる。

文章の質を上げる少しの努力は、毎日書くことを続けながらもできる。と思いたい。

今の段階では毎日書くことをまだ手放せそうにないから。
そういう向き合い方で、またしばらく進んでみようかな。




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