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誰かが出した答えは、誰かのものでしかない。

迷ったり、悩んだり。揺らぎや葛藤の中から何かしらの答えを出そうともがく文章は人間らしくて、とても好きだ。


一方で、はっきりした答えが記されている、いわゆるノウハウを伝えるような文章もある。ぱっと読んでわかりやすく、自分が何かに迷ったときについ頼りにしたくなる。

ただ「なるほど」と思うのは一瞬、数日経てば忘れてしまうことが多い。もちろん内容による。自分が実践につなげられていないだけなのもある。しかし結局、誰かが出した答えは、誰かのものでしかないのだ。


誰かが出した答えが、自分に当てはまるとは限らない。ある物事に対して、Aであると思う人もいれば、私はBである、私はCだと複数の答えが存在する。

たとえば、これから先の人生を考えるときにビジョンを持とうと言う人もいれば、ビジョンなんてなくていい、目の前にあることをしっかりやろうと言う人もいる。

どちらが正解か不正解かは、ない。
自分がどう考えるのか、それだけが唯一の答えなのだ。


自分が考えることをせずに他者の答えを浴び続けていると、自分が本当は何を考えているのか、わからなくなる。ただ周りに流されている状態。


そういえば昔、この状態に悩んだことがあった。
悩んで、誰かに相談した記憶がある。

「たとえば、バナナは本当は青いんだとAさんが言ったら青いのかなと思っちゃうし、本当は赤いんだとBさんが言ったら赤いのかなと思っちゃう気がするんだよ~」と。

すごいマヌケだ。。
でもこうやって相談した気がする。

誰に相談したんだろう。どんな答えをもらったんだろう。
全く覚えてない。

でも自分の頭で考えられない自分が嫌で、誰かに流されてしまう自分が嫌で、そこからは抜け出したくて。だから誰かに相談したんだと思う。嫌だなぁ、どうしよう、と人に打ち明けていたってことは、抜け出すためのスタートラインには立っていたんだな。


今はどうだろう。
自分で考えること。自分で答えを出すこと。
少しはできるようになってきたのかな。

周りの人の影響が大きい。
自分自身の考えを、軸をぶらさずに述べる人たちの存在。それは「頑固」とか「柔軟性がない」とかではなく、ただただ揺らがない信念がある人たち。シンプルにかっこいいな、と思った。

バナナの色を信じられない自分が嫌で抜け出したいと願ったこと、そういう人たちの存在があったこと、そして書くことが習慣になったことにより、否応でも自分の考えを述べるようになり、「少しはできるようになってきた」と思うのだ。


生きていくことは、きっと答えを出し続けることの連続で。

自分が考えて出した答えは、みんな正解。


「こう思うんだ」という考えを、恐れずに、発していきたい。




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