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お弁当の甘い卵焼き

中学1年の1学期の終わりに、母が亡くなった。

忌引が終わって2~3日後から夏休みだったと思う。

長い夏休みは悲しみにくれて過ごしたかといえば、そうでもない。

母はそれより4年くらい前から入退院を繰り返していたので、夏休みにいないのも私にとってすでに当たり前のこと。昼間はいつもの夏休みのように自分のペースで適当に宿題を進め、妹とけんかして過ごした。

私たち姉妹が夏休みの間は、祖母や親戚が時々手土産を持って来てくれたり、家に招いてくれたりした。母を亡くした子どもたちが悲しみに暮れないように。だが、大人たちは四十九日をだいたいの区切りとして、きっぱりと自分たちの暮らしに帰っていき、誰からも構ってもらえなくなった。

もちろん私も学校に行かなければならない。起きて、学校へ行き、帰り、寝る。でも母親が亡くなった実感は、時間が経つにつれてじわじわと強くなったから、四十九日を区切りなんかにしないで誰かに構ってほしかった。慰めてほしかった。

思春期のせいもあるのか、学校にいる間の気分も不安定になっていった。級友たちからすれば、いつも根暗で時々脈絡もなく泣き出す私は、相当気持ち悪かったに違いない。自然と友だちのいない子になった。

教育実習生のI先生は背の高いハンサムな男性だった。授業は数学か理科か、理系科目だったと思う。授業が上手で、板書しながら時々生徒たちの反応を確かめたり、注意をしたり、不意打ちで当てたり、ほんとの先生みたいだった。

I先生はある日、私の側に来て、どうしていつも一人でお弁当を食べるのかと聞いた。

私は、お母さんが死んで、いつも自分でお弁当を作っているから、恥ずかしくて見られるのが嫌なのだと、正直に言った。

「そうか。じゃあ明日は先生がお弁当を作ってやるから、自分のは持ってこなくていいぞ」

半信半疑で次の日登校すると、先生は朝の会の後、こっそり包みを渡した。私はすぐさま机の中に入れたから、誰も気づかなかったようだった。気づいたとしてもあえて構ってくる子はいなかった。

お弁当の時間。

先生は誰かと一緒に食べることを想像したかもしれないけど、特定の生徒だけにお弁当を渡すなんてイケナイコトに決まってる、と感じていた私は、やっぱり一人で食べた。

うちとは違う味付けのお弁当。卵焼きが甘かった。

どう考えてもI先生のお母さんが作ったお弁当だったので、家に帰って空のお弁当箱を丁寧に洗い、「ごちそうさまでした。お母さんにありがとうございますと言ってください」と手紙を入れて、返却した。先生はニヤッと笑った。

I先生はいつも女子たちにちやほやされていたし、男子にも人気があったが、私とはその後も特別に仲が良さそうにすることはなくて、しばらくして教育実習が終わった。

教育実習が終わる数日前に、私はI先生に、記念に名札が欲しいとお願いした。人気がある先生だったので他にもお願いした人はいたようである。

実習最終日の下校の時。帰り支度をしていた私にI先生は名札をくれた。そして色々あるけど頑張れ、みたいなありきたりのことを言われた。

I先生とはそれから1度も会っていない。きっと面白くて人気のある先生になって、素敵な女性と結婚したんじゃないかな。

構ってくれる大人を欲していた時に、構ってくれたI先生。人生には本当に心底辛いことがある。けれど、良いこともある。と、希望を持てるようになったのはI先生のお陰である。

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