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やりたい仕事ができなくて、今も諦めきれない。

小学校の社会の資料集、とあるページの左下のすみっこ。書かれていたのは青年海外協力隊の紹介だった。

その数行で私は将来を決めた。

それはちょうどエチオピア大飢饉(1984年)の頃。ガリガリに痩せ細ってお腹だけがカエルのように膨れ、顔にたかるハエを追い払うこともできない子どもたちをニュースで見て、小学生ながらその異様な状況を深刻に受け止めていた。

大人になったら青年海外協力隊に入って、開発途上国の支援をしたい。そのために看護師になろう。そう心に決めた。

その後中学生の時、映画『インディ・ジョーンズ』シリーズを見て、やっぱり考古学者になりたくなった。インディ・ジョーンズはあんまり考古学者っぽくないんだけど。

高校の時も大学では考古学を専攻するつもりでいた。担任にも親にもそう告げていた。

だが、高校3年の夏。

初めて本気で進路を考えた(やっと!)。

母が亡くなった一年半後に父は単身赴任となったため、その頃は妹たちと祖母との暮らしで、末の妹はまだ小学生。

私が実家にいなければ。

でも実家から行ける大学に考古学が学べるところはなかった。そうとなったら進路を変えなければ。

そこでふと子どもの頃の夢を思い出した。

看護師になって青年海外協力隊に参加する。

看護学校なら実家から通えるところにある。すぐに文系から理系に変更、看護学校受験のための準備を始めた。

と、書くと、妹たちのために我が身を犠牲にした美談のようで、そうしておいてもいいのだけど、実はちょっと違う。

看護学校の方が大学よりはるかに偏差値が低かったのだ。これなら余裕で入れる。つまり私は受験勉強が嫌で、楽な方を選んだだけ。

かくして私はみんなが必死で机にかじりついている頃、ぜーんぜん全く、これっぽっちも勉強しなかった。勉強量は定期テスト以下。でも合格したので結果オーライ。

看護学生時代に、保健師という職業を知った。看護師が病気の人のお世話をする仕事なら、保健師は病気を予防する仕事だ。

栄養失調の子どもの写真が頭に浮かぶ。そもそも病気にならない方がいいじゃないか。私は保健師になろうと決めた。

結局、保健師になってしばらくしてうつになったり甲状腺の異常が見つかったりで、おそらく一生薬が手放せない体であることが分かったもんで、青年海外協力隊の夢は叶わなかった。


本当に実家にいなければならなかったのか。

本当に看護師になりたかったのか。

青年海外協力隊以外に自分にできる支援の方法はなかったか。

自分の選択には色々と疑問が残る。今となってはどうにもならないけれど、後悔に似た歯がゆさがある。

栄養失調の子どもの空虚な眼差しと、途上国支援がしたいという思いは、未だトゲのようにチクチクと私をせきたてるのだ。

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