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とても好きなNote

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時々読み返したくなる記事、疲れた時に是非。
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#日記

「さみしさ」という鋳型

「寂しさを感じているが実際に人と会うと疲れるというタイプの人は、『交流をもっと持たないと』という観念にとらわれず、無理に友達の幅を広げようとしないほうが、結果としてQOLは上がるのではないか」という趣旨のツイートを見て、たしかにそうかもしれないと思うなどした。  過去のエントリでも何度か話題にしたことがあるけれども、この「さみしさ」というのは仏教で言われる「渇愛」と似たところがあって、単なる一時の感情であるというよりは、むしろそれを発生させるエネルギー源もしくは構造として、

有料
200

変化の年

会社も辞めたことだし、今年は変化せざるを得ない一年になるだろう。 入社したその日から、長くは続かないだろうと思っていた会社員としての生活を、2年近くも続けられた自分を褒めたいと思う。そして辞めるタイミングもなかなか良かったのではないかと、振り返ってみてそう感じる。 最後の出社日はPCや社員証の返却のみだったから昼前に帰宅することになったのだけれど、その帰りの電車から流れる景色が、太陽の豊かな光が見慣れた街並みを燦々と照らしていてとても美しく、心に残っている。それに呼応して

高田馬場のジョイ・ディヴィジョン

敢えてほとんど予定を入れなかったGW。鮨詰め状態の東京駅をニュースで見て、やはり正解だったのでは、と思う。あの場にいたらと想像するだけで、少しの疲労感とストレスが湧き上がってくる。ただ一つだけ後悔があるとすれば、5/6に行われたトリプルファイヤーのワンマンのチケットを取り逃したことくらいか。 トリプルファイヤーはここ1年くらいよく聴いている。高田馬場のジョイ・ディヴィジョンとも呼ばれ、ポストパンク的なサウンドとボーカル吉田靖直が紡ぐユニークな歌詞が魅力のバンド。 特にこの

曖昧さ

頑張りたいと思います、という言葉を何度か使っている。よくよく考えてみると、とてつもなく曖昧な言葉だ。「頑張ります」でもなく「頑張りたいです」でもなく「頑張りたいと思います」という言葉。 頑張りたいと「思っている」だけなのだから頑張れなくてもいいし、結果的に頑張れたのであればそれはそれで良い。そんな曖昧さが好きなのかもしれない。不確かなものばかり溢れる世の中で、曖昧さを受け入れて愛していたいと思う。というか、そうしなければとても生きていけない。 大学を卒業して会社員になり約

グッバイ、大学

どうやら大学を卒業できるらしい。 大学を卒業するということはつまり僕は大学生であり、これまでも大学生だったわけだ。だが、どうにもしっくりこない。自分が学生であったという事実が。 僕は、集団とか、組織といったものへの帰属意識が著しく低い。これは幼少期からずっとそうで、大学に対してのそれも低いどころかほとんど皆無といっていいくらいだ。 どの大学に通っているか、とか、学部学科などの所属。そういうこと自体おおよそ何の意味もないことだと思っている。 周知のように2020年に例の

シームレス生活

一日の中で何をするか、いつ起きていつ寝るか、何を食べて、どこに出かけるか。そういったものを殆ど自分自身でコントロールできる。最近はそういう自由な暮らしをしている。 かつて憧れていたそんな生活。でもそういう日々の中で感情は希薄になり心が死んでいってるのかもしれない。 今まで書いてきたものを振り返っていた。そのどれも愚痴みたいだなと思った。 何か表現したいことがある時というのは決まって嫌なことがあったり、誰かとの別れがあったり、トラウマを掘り返されたような時だ。 心にでき

「余計なお世話」をするバランス、何もしないバランス

 最近、自覚している変化がある。他者に対してどのような働きかけをするかということについてだ。例えば困っている人を助けるとか、助けないとか、良くないかもしれない方へ向かう人に対して、何かアクションを起こすのか起こさないのかということ。  多分昔は、うざいと思われてもいいから言葉をかけようとか何かしようと思うことが多かった。しかし、今は、相手の力量(内在的な力や成長速度)を見てそれに委ねてみるといったことを結構やっている。この人はいずれ自分自身で気づくだろう、というわけであえて

轟音。そして年末のご挨拶

バンドが終わる時というのは途轍もないエネルギーが発生するのかもしれない。それは超新星のようだと思う。 超新星とは、星の寿命が尽きて起こる大爆発のこと。 12/28のSUNNY CAR WASH解散ライブ。まさにそういう瞬間に立ち会ってきた。 こんなに爆音なのか、というのが最初の感想。今まで数多くのライブに行ってきたけれどここまで脳が揺らされるような轟音は初めてな気がする。 特にウネくんのドラムはandymori初期の後藤大樹を彷彿とさせた。 身体のコンディションが悪

2年

10/1の投稿で年内を目処にnote止めると書いたのですが、やっぱり続けようと思います。ちょっと気が変わりました。 更新頻度は下がっていくかもですが、どうかこれからもよろしくお願いします。 そういえばnoteを始めて2年経ったらしくバッジを獲得していた。 特に明確なスタンスもなくただ何となく続けてきたけど、今まで130以上も投稿をしていることに自分でも驚いてる。 そして、それなりの量の文章を書けたのは自分にとって大きい。自信にもなった。文字数だけなら小説数冊分くらいに

惹かれる文体、作風

好きな作家だれ?と聞かれたら、小学生の頃は江戸川乱歩だと答え、中高生の頃は道尾秀介だと答え、少し前なら村上春樹だと答えていた。 今は、遠野遥だと答えると思う。とは言っても彼の作品で単行本化されているのは2作しかないので、その2作品しか読んでいないのだが。 昨年、芥川賞受賞作の『破局』を読み、今年になってデビュー作の『改良』を読んだ。どちらも休憩することなく、夢中で一気に読んでしまった。3作目の『教育』は来年刊行されるらしいので買って読もうと思う。 彼の文体に強く惹かれた

君が歌ってよ

酔ってるけど久々に書こう。 もうすぐ期日前投票に行くのだが、最近は政治をウォッチする暇などなく一夜漬けのように公約や候補者をチェックしながら考えている。 何年か前は政治にそれなりの興味もあった。だが知れば知るほど、自己保身まみれの議員や官僚ばかりだと感じてしまった。諦観ばかりが強くなり、国民に目を向けている政治家など一人としていないのではないか、そんな気がしてしまって興味はどんどん薄れていった。 でも、選挙には行くようにしている。行くからには考えなければと思う。 んー

誰かの頭の中で鳴るノイズにはなりたくない

某年7月28日  毎日目にするベランダの植物は、毎日目にしているのに日によって違って見える。その日晴れているか雨かでは明らかに違う。けれど、晴れ続きの日に違って見えると、私は自分の中で何かが起こっているとしか思えない。植物は眩しい輝きを放って空に向かって伸びている日もあれば、今にもぽっきりと折れてしまいそうに頭をもたげている日もある。植物は日々、私の心の様子を如実に表している。彼らはきっと芸術家で、私に鑑賞されることをいつも心待ちにしているみたい。  植物は優しい。自身の

表明

嫌なことを沢山考えてしまう。できれば止めたいけど、実際、嫌なことばかりなのだから当然なのかもしれない。苦しまなくていい人が苦しんでいて、死ななくて済んだはずの人が死んでいるのだ。 世の中、社会に対して強い違和感を感じて怒りを覚えてる。この感覚は忘れたくないし、忘れるべきではないと感じている。 でも同時に自分の無力さも実感するのです。僕には何もできない、と。 この思いの、向かう先はどこだろう。 とりあえず書いている。毎日。 書いては消し、書いては消し、また書く。 言

真夏に向けて

普段は言えないことや愚痴を言い合って救われることもあるし、ちょっと楽になったりもする。このnoteは見ていないだろうけど友人に感謝。飲んで帰宅してベロ酔いになっていたタイミングで電話かかってきて驚いたけど、そんな時しか話せないこともあるなと、昨夜そんなことを感じた。 そしてこれは先週のことだが、折坂悠太さんがインスタライブで『坂道』演奏後、「いつもより爽やかでした」というコメントを受けて「はい。いつもより爽やかにやりました。現実がちっとも爽やかじゃないからです。でもそれも勉