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なにわた [青空編]

何が私を駆り立てたのか、リサーチ。前回からの続編です。いろいろあって沖縄で‪増田捺冶‬と出会い、雑誌を作り始めたのが前回までのあらすじ。

君の名は雑誌「令和」

時間だ。官房長官がおれたちの雑誌の名前をテレビで発表してくれる。‪増田捺冶‬と通話をつなぎながら報道を眺めた。まだか。まだか。空撮で捕らえられた車が一台走っている。予定の11時30分を過ぎ、11時40分を過ぎた頃、菅長官が部屋に入ってきた。「新しい元号はメイワであります」

え、メイワ?レイワ? うまく聞き取れなかった。掲げられた墨書には「手話のワイプ」が写り込んでいて文字がよく見えない。眺めているとワイプは消えて「令和」という文字が見えた。

「令和だ、れいわ!」
「サイト作り替えるわ。モックアップ画像ができた」
「3文字じゃなくて助かったな」
「ダサかったらどうしようかと思った」

時計の針が進む中、各種画像を差し替えてサイトが完成した。

完成タイムは発表から35分ほど。スピードは問題ない。あとは、同じことを考えている人がいるかどうか……。もし大手出版社から「雑誌令和」が発表されたりしたら、この企画はうすら寒い企画へと早変わりである。頼む……出てこないでくれ……祈る気持ちでTwitter検索を30分ほど眺めた。

「おれら以外に雑誌令和作った人いないみたいだね」
「寝るか」

新しくなったサイトを眺めながら長い眠りについた。目が覚めたころにはゴールデンボンバーが「令和」というMVを2時間でリリースしたと話題になっていて、少しだけ気持ちが分かった。

渋谷TSUTAYAサマサマ様様

西田篤史さんが書店に営業をかけてくれて、TSUTAYAさんが本を置いてくれることになった。とはいえ購入数は担当者の判断なので、店舗に出向いて見本を見せて注文を一件づつもらっていった。どこの馬の骨とも知らない人間がいきなり作った雑誌をTSUTAYAさんは買い取ってくれた。5冊の店もあれば、10冊の店もあり、なんとTSUTAYA 渋谷店さんは100冊を一気に買い取ってくれた。え、マジ!? 収益なんとかなるんか? 驚きとともに配本した。ありがたいことに西田さんが出版イベントも手配してくれた。

中島晴矢東信伍ちゃんもも◎が登壇してくれて無事に盛況のままイベントは終了した。本当に令和元年5月1日が始まった。メモを真剣に取ってる人や、僕らの話をききながらボロ泣きしている人もいて、なんか久々に人前に立って緊張してしまった。いろいろ中島晴矢のサポートに助けられました。

事前予約、店舗納品を加えたら在庫はほとんど無くなり、同時並行で進めていた台湾での場所作りに没入していくことになる。

台湾へ移住

イベントも早々に、5月9日から台湾へ移動することになる。当時のブログを読んでみると、意気揚々と海外に行ったというよりは、日本や東京での自分の役割が終わって少し寂しいというニュアンスのことが書いてあった。

会社での自分の役割を見出せず、混乱していたときに、齋藤恵汰に相談に乗ってもらうことが多くなっていた。文化事業部のなかで自分だけが経営に有効な特殊技能を持っていなかったので、存在意義を見失っていた。そこまで追い込まれると人間不思議なもので「苦手なことを頑張る」という選択肢に逃げてしまうらしく、会社に社内販売のエリアを作ったり、役員の経費登録作業を巻き取ったり、自分の良さを生かすというよりかは、ただ自分の居場所を作ることに必死だったように思う。

家に帰るとヤバさんから「早く金を稼げよ」的なことを言われ、精神的にも退廃していた。そんな折に齋藤恵汰から「稼げない人にお金を分配するために会社は存在する」という言葉をもらい目が覚めたのを今でも覚えている。ああ、確かに短期的な目線で収益を考え過ぎていたなと思い直し、東京を離れることを決意する。悲しいけど東京での自分の役割は終わったのだ。

話が逸れましたね。移動先としては沖縄も候補にあったけれど、前述の‪増田捺冶‬との出会いもあり、台湾に移動することに決定。とはいっても観光ビザなので、3ヶ月おきに日本を踏まなくてはならない。このころの報道は「ピエール瀧」ばかりで平和な日々であった。

移住となると荷物はひとつでは済まないので、初めて預け入れ荷物というものを使った。増田捺冶‬からお願いされたプリンターを運搬した。

物件を借りるための資金は、FacebookやTwitterで15人ほどから援助してもらった。まだその方たちも台湾に遊びにきた人は少ない。

映像の時代 / Youtubeの始まり

西田篤史さんから「解像度」の話をされていて、映像をやりたいなと思っていた。(昔のデジカメで撮った写真の解像度は今のディスプレイだと小さくなっていくお話。……転じて写真だけしか残さないと未来において存在感が得られない現象へと展開)

台湾へ移住し、台湾の魅力を伝えつつ、自分の存在を表現できるものとしてYoutubeアカウントを始めた。知人でやっている人はいなかったが、唯一、作家の山本悠がやっていたのを見ていた。

Youtubeを設立した人たちのコンセプトって素晴らしくて、世界にたくさんの人間がいるってことを知るためのウェブサービスなんだって。
山本悠へと続く道より

今思えば彼のレクチャーがあったから始められたのかもしれない。海外という立地のせいもあり、日本語しかできない自分にとって一人の時間が増えたことも要因としてあると思う。(あと、‪増田捺冶‬がYoutuber評論家であったのだ。本人は絶対に人前では言わないけれど)

2019年5月29日に設立されたチャンネルは、自分のほかにも‪増田捺冶‬がログインできるようになっており、お互いが自由に更新するスタイルとなっている。物理的に距離が離れていても日本に「今何している」のかを伝えつつ、動画編集やカメラの前で喋ることのスキルへの訓練の場として育っていくこととなる。

人が集まらない!何故だ!

台湾でのオルタナティブ・スペースの立ち上げは、法的・資金的には辛いところはなかった。むしろ日本の不動産業界の酷さ(敷金・礼金・仲介手数料をすべて接収する日本の慣例)に慣れていたので、初期費用の安さ(33万円程度)や、そのうちほとんどが退去時に返却されるデポジットのような方式に安堵を覚えたものだ。もしうまくいかなくても、リタイアして返金があるから支援しれくれた人にお金を返すことができる。

ところが、である。

人間というのはどこも同じだと思っていた。もちろん文化的な違いなどあれ、トラブルというのは90%が人間関係に関わるものであり、東京や沖縄での経験がまったく生きないということはないと思っていた。

実際に叁朝屋を始めてみると初期メンバーが集まらない。初期メンバーがいなければ開始できない。家賃をペイできるギリギリのメンバー数である4人すら困難を極めた。

オルタナティブ・スペースに関する状況は日本でいうところの2006年〜2008年に相当し、各地方にちらほらあるけれど大規模なものは育っていないし、雑誌などで特集されることもないという地味な存在だった。つまり「叁朝屋って何?」というのを全員に1から説明しなければならなかったし、そういった土壌のなさに加え、「週末家族訪問」や「家族との予定は友達との約束よりも優先」など我々の目指す先(?)を一緒に歩んでくれる人を探す上で困難がそこら中に横たわっていた。

初めて宗教というものに触れてこなかった自分を知ることができた。正直に言おう、僕らは宗教について、無知でした。

「実利中心主義」と「家族中心主義」の壁

人間はどこで暮らしても同じだ。だけれど、宗教は場所によって異なる。日本人はアンケートなどでは8割が「無宗教」であると答えるが、海外の調査によると日本人はほとんどが「神道」であるという。それについて考えること台湾ですごくあった。僕らが異様に約束を守る民族だというのか?

むしろ「日本人がなんか勝手に約束して破られて落ち込んでる(笑)」ぐらいに接してくれたほうがずっとずっと気楽だった。それなら国民性を理解していない僕らの頭が悪かったということで着地できる。ところが、僕らの思想にもある程度寄り添って理解を示してくれるのである。だからこそ信頼を無下にされたとき落ち込むし、僕らが泣いている理由の第一位はそれだった。

ここでは儒教と道教については避けることができないだろう。

宗教については素人なので間違っていることもあるかもしれないが、ひとつの仮説が自分の中にある。それは儒教における倫理法則である五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)の順番はそのまま優先順位なのではないか?ということ。それぞれの意味はWikipediaで調べてもらうとして、問題は一番最後に記述されている「朋友」である。読み方は「ポンヨウ」で、日本語でいう「友達」に相当する。これがどうも最後の後回しにされて、結果「家族中心主義」になっているのではないか。

あくまで仮説ではあるけれど、こう考えるといろいろ説明がつく。あえて日本語に訳すならば

親子関係 > 雇用関係 > 夫婦関係 > 年功序列 > 友達関係

とでもなろうか。とにかく親子関係(祖父・祖母含む)が一番上に来る。これはもう体感として間違いない。何においても優先される。どんなに熱愛のカップルがいたとしても、恋人の情報は親に筒抜けであり、親が不快感を示せば遅かれ早かれそのカップルは別れる。上の概念が下の概念を支配しているのである。当然、叁朝屋の活動は一番右に属する活動なので、約束や責任感というものは反故にされるというか、恋人との約束や親との約束で塗り替えられてしまうのである。

……などと、うまいこと細かいディティールをボカしつつざっくりと問題を表現してみたがいかがだろうか? カルチャーギャップについては書きすぎると「自分有利な記述」になってしまうのでここまでにしておく。

もうひとつ面白いと思ったのが「モラトリアムの皆無さ」です。日本だったら学校を卒業したあと(すぐに就職する人もいるけれど)一定数は「プロのミュージシャンになるため頑張る!」とか「画家を目指すために留学する!」などの夢に向かってモラトリアムを活用します。台湾ではほとんどそういう人がいない。社会の空白が無いというか、みんなすぐに就職していなくなってしまう。そのため叁朝屋内部では16歳〜23歳の溜まり場となり、人間が育つということが行われにくくなり、半年とかでメンバーがほぼ全員入れ替わってしまう。全員だぜ? ビビるよね。逆に言えば叁朝屋でお金が稼げればかなりの学生が残ってくれたんだろうなとは思う。これも感覚だけれどモラトリアムが無駄であるという「実利中心主義」とでも呼ぶべき概念が浸透しているように感じた。だからメンバーを募集するときも(あなたが何をできるか?ではなく)叁朝屋に参加するとこんなメリットがあるよ、ということを記述することが増えていった。果たして、このやり方が正しいのだろうか?

そして人がいなくなった

叁朝屋では毎月パーティーを実施していて、事件は二度目のパーティーで起こった。人を集め過ぎたのだ。知らない人もいる。叁朝屋は立地は最高である。そのため二度目のパーティーとでもなれば、前回の評判を聞きつけて管理できないレベルで集まってしまった。そのため‪増田捺冶‬が懇意にしていた、いずれはメンバーに入れようと人や、現状メンバーである人たちがみんな中座してしまったのだ。

台湾の人たちは思った以上にシャイだったのだ。

この一件で‪増田捺冶‬がものすごく落ち込んでしまったのを覚えている。ここから「まずは内部を作ろう」という話が始まったような気がする。そして、夏に起こる「日本人爆発事件」まで叁朝屋の盛り上がりは増幅されていくことになる。

「日本人爆発事件」での成長

思い出すと、2019年の8月はみんなアクティブだった。叁朝屋ができてから3ヶ月経ち、日本の友達にもジワジワと知られていった。北海道や沖縄で場所を運営するのとは違い、ここは海外であったので、Twitter・インスタ・Facebook・Youtube全方位で「台湾」という言葉を使っていった。「アジアの中継地にしたい」という目標も、通路としてきちんと通ってもらわなくては意味がない。とはいえ、人間は動かない。最初の1年は誰も日本人が来ないだろうと僕は踏んでいた。

ところが夏になると日本から友達がいっぱい台湾に遊びに来てくれた。なーんだ、みんな台湾に行きたがってたんじゃん。たくさんの日本人友達が2週間おきに入れ替わり立ちかわりに夏は叁朝屋に滞在していった。すると問題になるのは「日本人多すぎじゃね?」という言語化されない問題である。言葉の壁がそのままコミュニケーションの壁になる。言語の少数派が居心地わるくなる。

特段、台湾の人から苦情が来たわけではないが、‪増田捺冶‬はこのことを重く受け止めた。僕も反省し日本人の友達を叁朝屋に呼ぶのを止めた。場が強い人に占拠されてしまうのをせき止める。この時に醸成された思想が今の叁朝屋を形作っていると思う。「弱者優先の場所でも、強者優先の場所でもない」というのは明文化こそしていないが、叁朝屋という場所を指し示す憲法のようなものだと思っている。

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(初期の頃、叁朝屋に来ていた人たち)

美術からの方向転換?

また、夏は叁朝屋を使って、叁朝屋メンバーによる展示を企画していたが結局流れてしまった。まだ方向性も定まっておらず、先行する渋家やナハウスの流れを汲んでのものだったと思う。展示などのアウトプットがないと「何の場所なの?」という心理的距離の遠い人たちには訴求できないと思っていたので、当時は展示にこだわっていたし、自分としてはそれがベストだと思っていた。

‪増田捺冶‬とはお互いに気持ちが乗ることを重要視していたので、結局、展示が行われなかったことについては重要な示唆があると思っている。ここでは美術や絵画というクリエイターを哺育するのには向いていない。そういう神からのメッセージだと思った。(この悩みは1年後、音楽と映像への強化へつながっていく)

ナハウスの終焉

そして夏の中頃に差し掛かった時、ナハウスの代表から連絡がきた。「ナハウスを閉じることが決まった」と。これからツイートで告知もするらしい。我々が最も参考にしていたオルタナティブ・スペースだったので、この終焉に立ち会うことにした。2016年の頑張りが、こうして2019年まで余波を与えたことをシンプルに嬉しく思った。渋家のように後継者が見つかったのも土地の利があったからで、むしろ金銭や人間関係で自然消滅するよりはずっとずっとよかった。(もし自分が叁朝屋を始めていなかったら、手を出していた可能性は大いにあるけれど

なーんてね。というのは表向きの嘘であることも、僕は電話で聞いていた。ナハウスを止めるのではなく、ナハウスの看板を下ろすということの宣言だった。大家さんや管理会社の関係上、見た目上は「ナハウスが終わった」と思わせることが大事だったので、鍵アカウントだったナハウス垢をオープンに切り替え終了を大いに演出した。

幸い、ナハウスでは文化として「毎月ごとに写真を残す」というのがメンバーに染み付いていたので写真はいっぱいあった。思い出とともに7月の終焉を盛り上げた。ここから1年近く、ナハウスは表舞台から姿を消すことになる。お客さんも受け入れず、SNSも展開しない。孤独で長い戦いがメンバーの中であったと聞いている。このときの詳細を誰か当事者が書いてくれるのを待とう。僕はいずれきっと読みたい。

ベトナムへの同行

美術家・遠藤薫に誘われて、記録撮影ということでベトナムへ同行した。

たくさんの水牛が道を塞いで、車が通れなくなっているところに遭遇した。とっても嬉しかった。生きててよかったと心から思った。人生におけるハイライトのひとつだろう。人間の地位なんてこんなもんでいいのだ。世界と調和できて、自分も他者もすべて許せる時間。これがベトナムの良さだ。食事はなにもかもが美味しかった。日本で食べたフォーはすべて偽物だった。危なかった、本物を知らないで死ぬところだった。絶対に、結婚相手はベトナムに連れてこよう。人生の本質がここにあるから。

きっと徳を積んだら、来世はベトナムに生まれると思う。ここは文字通り天国であり、生きることを国全体が称揚している。きっとこんな場所で育ったら素敵な魂になると思った。

社会主義国家なので、滞在は10日間まで。数万円払ってビザを購入すると2ヶ月まで滞在できるらしい。もっと気軽に長期滞在できると嬉しいな。みんな普通に商売してたので、実質的には資本主義国家の形をしていた。芭蕉布の研究者とともに北ベトナム(中国との国境すぐ近く)の山に潜ったり、それを撮影したりしていた。だからほとんど都市が見れていないけれど、またいずれプライベートで行くつもりだ。

叁朝屋初期メンバーの追放

叁朝屋の初期からのメンバーを追放した。最初のうちはうまくいっていたのだが、だんだん閉じこもるようになり、コミュニケーションを断ち、暴力事件まで起こしたので残念ながらご退場いただいた。これは2019年史上もっともキツかった事件だったと思う。当時、遊びにきてくれた人にはずいぶんご迷惑をおかけしました。またトラウマにならず遊びに来てくれたらと思うぜ。

二度目のBABF

12月。冬だと思うかもしれないが安心してくれ、ここはギリギリ夏だ。沖縄で二度目のブックフェアを開催するために準備していたものを引っさげて現場入りした。前回は1週間前入りで大変だったので余裕を持って2週間前に入って会場を設営。テーブルだけでなく椅子まで手作りで、テーマは「砂ぼこり」的なものだ。これは直前に見たタイのアートブックフェアに強く影響を受けている。ベトナムの経験もあり、超低い椅子を採用した。すると地面と外の距離が近くなって仲良くなれる気がするのだ。

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でたぁ。愛の袋とじ。」というコピーは入稿ギリギリで出てきた言葉。愛という照れ臭い言葉を使うなら2019年が最後だと思って、なんとか照れ隠しを加えつつ料理したいときに〝袋とじ〟という秘密・セクシー要素のある単語を発見できたのがよかった。〝でたぁ〟が無かったらけっこうヤバいキャッチコピーとなるところだった。

言い忘れていたが、つのぴーと又吉美輪が出産後だったので、昨年より動けるリソースは減っていた。今年から運営に‪増田捺冶‬が参加して、デザイン面の強化がものすごかった。このころから僕はクイズを作ることにハマっていき、翌年への伏線となっていく。‪増田捺冶‬の尽力により、ブックフェアなのに音楽イベントもついているという壮大なギャグが達成できた。このギャグが世界に広がってほしい。異ジャンルでも仲良くできるって。

(‪増田捺冶‬撮影・編集の素晴らしき記録動画)

中島晴矢の10年越しの余波

沖縄での仕事を終え、無事に台湾に戻ってくるとメンバーがマイクを持ってきてギターを録音していた。このころに麻布高校の歴史を増田から聞いた。中島晴矢が持ち込んだMDによってHIPHOPという文化が麻布高校にインストールされた。それ以降、毎年1枚づつ、学生たちが録音したオリジナルHIPHOPのMDが作成されたという。……めっちゃいい話じゃない? お気に入りのエピソードだ。だから、すでに‪増田捺冶‬の中にHIPHOPの流れが侵入しており、私たちは自然とラップを歌う土壌が叁朝屋にできていくのを感じていた。

(2019年12月31日の最後のツイート)

これまでの人生を書き出そうと思っていたら想像以上に長くなってしまった。「バラック演劇」や「篠田さん忘年会」に「渋家文化祭」それから「‪増田捺冶‬が恋人と別れた話」などかなりストーリーを端折っているのだが今回はここまで。もうちょっと続きます。

(↑続きを更新しました)

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