写真集と自転車と白身魚

東京に行っている人はきれいなのね。

出し抜けにそのおばあちゃんは言った。

なんのこと?

ぜんぜん脈絡のないその言葉に、私はとぼけた。

相手に話す言葉に発した言葉以上の意味なんてないのだ、というようにおばあちゃんはわりとまじめな顔をしていた。周り道なんて知らない、聞きたいから聞く、話したいから話す、という会話をたくさんした後だった。

夜8時まであいている、おばあちゃんの本屋さん。

ある編集者の夫婦が作った地元のお店の写真集のような本に載っていて、こうして取り上げられるとなかなか味がある気がして早く行ってみたいと思っていた。

なかなか味がある、なんて調子が良くて、それまでは、勝手に変なおばあちゃんがやっているひどく入りづらい古いダサい本屋さんだと思っていた。

ひとりで何年も、少なくともわたしが小学生の頃からあけていて、そして意外と夜遅くまでやっている。今日だってわりとドキマギしながらガタガタ開く自動ドアの前に立ったのだ。

その写真集の話を持ちかけると、

そうそう。しっかりモデルやっちゃった。

おばあちゃんはわりとまじめに言った。

結局、本を3冊も買った。

買ったとさらりと言ったが、財布を忘れて家に戻って、お金を持って戻ってきてようやく手に入れられたのだった。

こうやって街を自分のものにしていくんだな。

おばあちゃんとの会話の余韻を身体にまといながら自転車を漕いだ。生まれ育った街に大人になって戻ってきて、バーやカフェの会話を楽しみ始めていたわたしは、夜風を顔に感じながら幸せに胸を膨らませた。

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わたしにとっての鏡は、文章だった。

文章にしたときにサマになるかどうかで物事を決めていた。例えば、買った本はかばんになど入れず、2冊でも3冊でも手に持ったままブンブン振って歩いた。寒い日はコートのポケットに無造作に手ごと突っ込んだ。

それは自転車に乗った帰り道でも同じだった。本はいつも自分のものになった瞬間から、目の届くところで背表紙を掴まれていた。

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夜は白身魚を焼いた。

待ちきれずにときどきテーブルに載せている本を開く。3冊のうちの1冊だ。

数年ぶりに読むその本に出会えたことが嬉しくて、いつもみたいにレシートや表紙の紙をしおり代わりにするのは相応しくないと思った。

家の中を眺めまわし、この間もらったお皿を作った陶芸家の略歴が書かれた和紙を挟み込んで料理を再開した。

白身魚と白ワインの匂いが家中に漂い始めると、買ったばかりの本の表紙に魚の匂いがつかないか心配になり始めた。ぜんぜん意味はないのに表紙をひっくり返して背表紙をなでた。

匂いを吸い込みやすそうな手触りの紙だったからかもしれない。

今日は早く寝ようと思っていたのに、結局その夜のうちにぜんぶ読んでしまった。


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