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黄エビネが咲く庭で (第二章 日本のIT業界の革命児 吉田)

第二章 日本のIT業界の革命児 吉田

 吉田は、日本のITの世界では名が知られている存在だ。
 吉田は日本でのIT業界の先駆者であり、今でも最先端の生成AIや機械学習、ビッグデータの解析プラットフォームの開発、そしてそこに関する新しいサービスの開発にも自ら陣頭指揮を取っている。
 テレビやビジネス雑誌にも頻繁に登場し、取材を受け、最新のAIの解説などもしている。その吉田に憧れて入社した社員も多い。
 だが、そうした吉田の会社のインフィニティヴァリューには、ライバルも多い。企業規模の大小を問わず、スタートアップから超大手IT企業までが吉田のライバルだ。吉田はいつも
「IT業界には休む暇がない」
とこぼしている。

 吉田は、仲間を大切にする一方で、敵対するライバル企業らには極めて厳しい姿勢で臨むことでも知られていた。

 以前吉田は、彼のアイディアをパクられたことがあった。

 その頃の日本のIT業界も、日本のユーザーのパソコンのスキルやITリテラシーも、諸外国にまだまだ遅れをとっていた。だから日本の大企業は、海外のIT大手企業の言いなりで高額な値段のITシステムを導入し、その企業のパソコンを使わざるを得ない状況だった。
 吉田はそのような状況がいつまでも続いているならば、日本はどこまでも海外のIT企業の言いなりにしか過ぎず、いつまでも良いカモにされ続けてしまうと懸念した。

 そこで吉田は、本来のIT事業のほか、日本国内でITリテラシーを高めるための啓蒙活動も独自に始めた。
 当初、吉田のITの講演やレクチャー、トレーニングは日本のユーザーに大変好評だった。吉田のトレーニングの受講希望者が鰻登りに増え続け、一時は吉田の一月の半分近くの日数が講演やトレーニングに費やされた。吉田の講演やトレーニングが大人気だった主な理由は、安価で受講できることと、受講者から質問があれば最先端の技術であってもざっくばらんに教えていたからであった。

 あるトレーニングの際、吉田はいつものように受講者からたくさんの質問を受け、それらに丁寧に回答していた。
トレーニングの質疑応答が終盤に差し掛かった頃、ある受講者から少し専門的で、変わった質問を受けた。
 吉田は、
「(この人、実務でITシステムを触っていそうだな・・・。きっと、実務で何か困っているんだろう。この人の質問は、今うちが開発しているシステム連携の技術が応用できるかもしれない)」
と思い、いつもよりも一層丁寧に回答した。更には、一部についてはソースコードまで書いて回答した。
 受講者は
「あ、なるほど、そんなことができるんですね! 確かに、そうすればここの部分が上手くいきますね! ありがとうございました!」
と満面の笑みで応えてくれた。
 それを見た吉田は、
「これでこの人の仕事がうまくいくなら、良いことだろう。この人の質問で、俺も新しいアイディアが湧いてきたし、うちの会社にもメリットが出そうだ」
と寛容に考えていた。

 ところが、このレクチャーの2週間後、IT業界のプレスリリースで、海外のIT大企業が新たなシステムを発表した。この新たなシステムは、吉田が2週間前のトレーニングで教えたアイディアを使って動作するシステムだった。
 そしてあろうことか、この海外のIT大企業は吉田のアイディアを自社の特許として申請してしまっていた。

 これに吉田は激怒した。社内外の取締役だけでなく、顧問弁護士など、法律と経営に関わる要職を集め、数週間にわたって対応を協議した。
 しかし、残念ながら、吉田と彼を支える経営陣はこの事態に対してなんの対策を示すことができなかった。全てが相手に先を越されてしまっている一方で、吉田のアイディアがまだ形になっておらず、特許申請もできていないことが決め手だった。

 それ以降、吉田は日本のITリテラシーを高めるための一切の活動を止めた。そして、自社の新システム、新機能、新サービスの開発と提供に特化した。吉田のトレーニングで学んだ多数の門下生からの質問にも、回答することはなくなった。
 この一件以降、しばらくの間、吉田は口数が減り、いつもピリピリとした緊張感を漂わせていた。経営陣の会議も数ヶ月ほど、重苦しい雰囲気が続いていた。
 吉田はエヴァンジェリスト的な活動を一切止め、自社のビジネスに集中した。IT業界における吉田の知名度は、徐々に落ちていった。

吉田、再起動

 その後2000年代に入り、インターネットが登場した。そしてスマートフォンも登場し、それらによってIT環境が一般庶民にもグッと身近になった。
 インターネットとスマートフォンの普及、それらのユーザー数の爆発的な増加、様々なセンサーの開発とスマートフォンへの実装による普及、これらが相まって、個人の様々なデータが容易に集められるようになった。
 併せて、ユーザーのITリテラシーも急速に高まった。
 この状況を見て、吉田はインフィニティヴァリューの事業をシステム開発と提供のみならず、インターネット環境の提供やスマートフォンの普及によって起こった莫大なデータの流通と管理、そしてそれらの分析等を、新たな事業として立ち上げた。

 特にデータの分析については、吉田自身が独学で行動経済学を学びはじめたことが、インフィニティヴァリューの2000年以降のビジネスの根幹にあった。
 2002年にダニエル・カーネマンが行動経済学でノーベル賞を受賞したことをきっかけに、吉田は行動経済学で「人間は、必ずしも合理的な意思決定をしない」ことを学んだ。
 ここで吉田は、
「もし人間が合理的に判断できなかったり、誤った判断を頻繁にしているなら、その人間の行動データを収集して分析すれば、その人の真の消費行動が分かるようになり、品物を買うときにどのようなことを考えて買ったか、あるいは買わなかったかが明らかになるのではないか? そして、これはマーケティングに使えるデータになるはずだ。そうすれば、これは多くの会社が欲しがるデータになるのではないか?」
と考えたのだった。

 そこで吉田は、あらゆる業界の、多数の企業に提供している自社開発のインターネット環境やサーバー、クライアントのウェブサイトやEコマースサイト、SNSなど、自社が取り組めるあらゆるツールと方法を駆使して、膨大なデジタルデータを収集した。そして、その膨大なデータの中の個人情報を匿名加工し、インフィニティヴァリューが開発したデータ解析プラットフォームで、ユーザーの行動データを徹底的に解析した。
 その解析データによって、個人の購買行動を起点とした社会全体の購買行動や経済活動が精緻に視覚化できた。そのため、インフィニティヴァリューによる日本の社会の行動解析データや経済活動の解析データは、あらゆる企業のマーケティングや大学の研究、授業の教材、官公庁の分析用データなど、広く用いられることになった。
 これらは全て吉田の読み通りで、吉田が目論んだ以上の収益をインフィニティヴァリューにもたらした。

 蒼生が吉田のインフィニティヴァリューに入社したのは、その頃だった。
 入社当時、インフィニティヴァリューは業績が大幅に伸びており、また新規顧客もどんどん増えている状況だった。新卒採用にも中途採用にも積極的で、受験する蒼生らから見たら
「インフィニティヴァリューは、ものすごく勢いがある会社だな」
と思っていた。
 ところが、実際に採用された人数は、当初の募集人数よりも少なかった。これは、吉田のこだわりで、吉田は
 「人数合わせの採用をするな。人柄や能力を徹底的に審査しろ。その上で、当社が採用すべき人材全員にオファーを出せ。採用予定人数より多くても少なくても構わない。とにかく優れた人材を、男女問わず、年齢を問わず、採用しろ」
という人材採用のやり方をしていた。
 そのおかげもあってか、吉田のインフィニティヴァリューは今でも、人柄も能力も実績も優れた人材が非常に多い。それだけでなく、新入社員にも丁寧に仕事を教え、気軽に相談に乗る先輩社員が多い。蒼生も非常に勉強になっていて、蒼生自身の成長は、吉田の人材への考え方が大きく作用していた。

 蒼生は、インフィニティヴァリューに新卒で入社した。最初の3ヶ月は研修を受け、その後1年間は先輩について営業にまわっていた。その後、カスタマーサクセスに異動になり、現在に至っている。カスタマーサクセスとしては4年の業務経験がある。
 この間、蒼生の人生には大きな変化があった。その最たる変化は、母の死だった。

(第三章に続く)

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