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「群衆心理」を読んでⅡ 〜幻想、断言と反覆と感染。

「群衆心理」を読んで ~群衆は本能的な人間、野蛮人

群衆は集団精神を生み出す。
それは本能的な人間であり、野蛮人だ。
その中では、どんな識学で真面目な人でも等しく同様になる。


「群集心理」の読書レビュー第二弾になるが、今回はその本能的で野蛮人な群衆の統率について。
歴史上の指導者がどのようにして、群衆をコントロールするのか?


それには”幻想”が重要なポイントとなってくる。
群衆が結託して大きな力を発揮するための、原動力となるのは、希望を抱き渇望できる”幻想”が必要不可欠であるということだ。


幻想

幻想は、虚構や偶像、人間がイメージするものとして、なくてはならないものだという事実。
私個人も、夢は夢でしかないと考えている方だが、その夢もないよりあったほうがエネルギーになるわけで、過去の人類の歴史も、それらの幻想をいだくことによって形作られてきた。

芸術上、政治上、社会上の思想にして、幻想の強力な刻印を受けないものは、一つもない。

全ては幻想をいだき、それを群集心理で共有することによって文明が築かれてきたという事実。

われわれの夢の所産であるこの幻想が、諸民族にかつて壮麗な芸術と偉大な文明とをもたらすあらゆるものを想像せしめたのである。

「もし、宗教によって鼓吹されたあらゆる芸術上の作品や記念物を、博物館や図書館でうち砕き、それらを聖堂内の石畳に投げつけるならば、人間の壮大な夢の痕跡(あと)として、何があとに残るであろうか?」

着眼点をかえると、「所詮、夢や幻想に過ぎない・・」という悲観的な思想は無意味であり、その人間としての幻想の実態を知った上で、どのように自分を含め群衆をコントロールしていくのかが重要なことになる。


群衆の指導者

その中での”指導者”の意志が重要な”軸”となり、群衆の意志が統一されていく。
かの有名な独裁者ヒトラーもこの「群集心理」を愛読していたというのも納得できる。

指導者の意志が中軸となって、その周囲に、かずかずの意見がつくられ、統一される。
群衆は、統率者なしにはすまされぬやからの集り。

指導者は、多くの場合、思想家ではなくて、実行家であり、あまり明晰な頭脳を具えていないし、またそれを具えることはできないであろう。
なぜならば、明晰な頭脳は、概して人を懐疑と非行動に導くからである。

指導者は、特に狂気とすれすれのところにいる興奮した人や、半狂人のなかから輩出する。

本能的な群衆には、論理的根拠やまどろっこしい理屈は必要ない。
私も経験があるが、集団などがまとまり活気づいて士気が高まるような時には”明瞭な頭脳での理屈”は全く必要ない。

以前、パートナーとのアライアンスの責任者をしていた時
50社以上のベンチャー企業を取りまとめて集会などをよくしていた。
その時の私は、ある意味すこし興奮した半狂人だったような気がする。

そのような人格が群衆を取りまとめる指導者としては
ある意味必須のものなのだろう。


指導者が群衆の精神に、思想や信念を沁みこませるために用いる方法

断言と反覆と感染

緩慢ではあるが、その効果には、永続性がある。

断言、反覆、感染
企業や事業部で、スローガンなどを日々反覆する。
断言していない言葉はない。力強く目指すべき方向や理念を明確にする言葉。
それらを社員に感染させることが、企業ガバナンスにつながる。

意見や信念が伝播するのは、感染の作用によるのであって、推理の作用によることはあまりない。
現在、労働者たちのいだく考えは、酒場で、断言、反覆、感染の結果、形づくられるのである。

一方で、それらの吐口も含めて自由に意見や意思を表現できる環境も重要なことなのだろう。

ここでいう労働者の”酒場”は、意見や信念が伝播され感染しやすい環境だ。
その中で、人は群衆となって
本能的で、野蛮な感情を剥き出しにして、幻想について語り合う。

指導者の意志の言葉を、繰り返し、そして感染する。

自分たちは、指導者であり、群衆でもある。

「群集心理」を理解した上で、群衆になるのもおもしろい。
偉大なことを成し得る力は”群衆”にしかないものなのだから。


2021/10

©️Mahalopine

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