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不毛な複雑化には背を向けるのです

わたくし、もう初老なので、いろいろな事に疲れております。いろいろ劣化が進行しているので、無理しないで良しと判断した部分は開き直って無理をしないようになりました。エネルギーのロスを減らして本当に必要なところに投入するわけです。

(零細自営業者なので、無理しなければならない部分は今も無理しますが・・・)

そういうわたくしなので、特に人間の思想や創作分野の界隈における、過剰な意味づけや、不自然に引き上げられた市場価値、良くわからない権威を「めんどうくさい」と感じます。そういうのに、疲れる。

なので、そういうものと関わらない、という選択ですね。

オマエは複雑化・より多様化した現代について行けてないだけだ、と批判されようが、なんだか「ああいうのは実は単純な物事をワザワザ複雑にして、高尚ぶったり、ありがたがったりしているだけだよ」と思ってしまう事が多いのです・・・まあ、複雑にする人達は、そこに新しいビジネスがあるからそうするのでしょうけども。

逆に、現実に起こっている複雑な事象に関して、本質が変形してしまうほどに単純化してしまっているものもありますね・・・「〇〇は△△さえしておけば良いのだ」系など・・・それもめんどうですね。それにも関わりません。

アート作品などでも、作品に深淵な思想的背景や、歪んだ社会への警鐘や、高尚な文脈が含まれているかのような演出方法は、観るのもめんどうなので、(実際にはその手の作品にそんな思想も文脈も無いので)たまに美術館などでそういうものに出くわすと、一応はその部屋に入ってはみるものの「違う」と思ったら小走りで出ます。もちろん素晴らしい作品の事もあるので、ちゃんと観てから決めますよ。

現実的にエロやグロで人目を引く手法を使っているくせに、実はそれには深淵で高尚な意味があって・・・系のものは特に苦手です。私は基本的には表現の自由を支持しますが「アートですので」とすれば何でもアリみたいなものは、苦手です。実際「なんでもアリ」というのは面白くないものです。なんでもアリの場では人間はしょうもない事しか出来ないものです。

逆に、春画のようなものを、これはエロではないアートだ!と言って表舞台に出してしまうのも無粋な行為だなあと思います。春画は素晴らしいですが、日陰に咲く花だからこそ淫靡に美しいものを、日向に引きずり出したら粘液が乾いて枯れてしまいます。

もう、めんどうなので、最近はアート作品も、手に取れるような、自分の部屋で楽しめるような・・・「アート作品と私」として対面出来るようなものが個人的には良いです。

それは「自分の肌に合うもの」しか受け入れないですから、ある意味美術館やギャラリーで「鑑賞するだけ」より厳しいとも言えます。鑑賞するだけのものは、自分の肌に合わないものでも「オレはどうかと思うけど、作者の主張は理解出来る」なんて距離を持って品評出来ますが、自分の精神の内側に取り入れるものに対してはそういう姿勢ではいられません。

アート作品の背景にある深淵なる何か・・・なんて関係ない。いわゆる思想的価値、いわゆる芸術的価値、いわゆる市場的価値なんてどうでも良い。自分がそのアート作品と生活していきたいかどうかだけ、になりますから。

「私がどうしようもなく好きなもの・共に生きていきたいもの」という単純な感情や欲望が元になる感じ。

それで良い。

そういう価値観への揺り戻しが来たら良いな、と思います。コロナ禍で家にいる時間が増えた世の中なのでなおさら。

美術館に、ムダに巨大な絵や作品、やたらに壮大な仕掛けの「装置」を観に行くのは、めんどうくさい。

それなら、廃墟や巨大プラントや工場の方がずっとずっと面白いし、刺激的です。

 *  *  *  *  *  * 

物事の価値を、まるで高いように思わせるには|複雑化|するのはひとつの手ですね。

例えば、日本のお稽古ごとなどは、創始者がその仕組や理論や美意識を打ち立てた時よりも、複雑になっております。

以前は5階層だったものに、それぞれの階層にさらに10階層つくり、その階層にさらに10階層・・・といった具合に|複雑化|し、それぞれにお免状を与えるようにして集金システムと権威の充実を図るわけです。(もちろん、そのシステムの全てが悪いわけではありません)

現代アートや、現代の思想なども、そのようなものに感じられます。

|その界隈の人たち|からすれば、過去の文脈からどんどん複雑化していって、その延長線上の文脈において現状はこういうものがトレンドで・・・という言い分があるわけですが、一般人からすれば「なんか意味不明の作品をつくって、そこに意味不明なリクツをつけている変な人達」という感じです。

そういうものは「いつまでも結論が出ないようにするための複雑化」です。ずっとその場でグルグル回っていれば、回っている間はビジネスになる。

ただでさえ、複雑な世の中ですから、逆にそういう思想やビジネスとは関係ない、人間の心の深層部分の変えられない単純な場所に響くようなものが、私の心に響きます。

むしろ、複雑化、多様化ばかりではなく、整合性を持って単純化していくもの、原点に戻るようなものも、増えて欲しいと思う今日此頃です。

・・・というわけで、わたくし、世の中の「必然のない複雑さをワザワザ作り出し高尚ぶるもの」に、堂々と「めんどくせえ」と言います。ジジイ引っ込んでろと言われても。

私は、こんな時代だからこそ、単純な生物として生きて行きたい。


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