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それ、ただの偏食

以前、個性的なセンスで界隈ではちょっと知られた人と知り合って、少しその人の事を知ったら「ああ、これは、この人の感性で選びぬかれた何か、極めた何か、ではなくて“ただの偏食”が個性に見えているだけだなあ」と気づいて、その人との関わりを止めた事がありました。

そういう人は、社会からの「独自の美意識」という評価とは裏腹に、本人の核がなく、他人からの評価で言う事がフラフラ変わり、仕事の進め方も責任の取り方もいい加減で、自分が決めて何かをするわけでもなく、なんとなく自分の好みのものを他人にやらせて、社会からの評判が良いと自分がやったと称し、評判が悪いと任せたヤツが悪い、という感じなんですよね。まあ、ある意味「社会的なポジショニング」は上手いとも言えます。

なので、一緒に組んだ人たちに被害者が出ますが、しかし信奉者が多いので被害者の声は表に出にくいし、また、それなりに成功している人を貶める発言をすると、それが事実に基づいたものでも「なんだ、あいつ嫉妬してんのか?」と世間から思われてしまうので、口をつぐんでしまうのです。

しかし、そんなあいまいなやり方でも「元が極端な偏食」ゆえにそれなりに個性的なものに観えてしまう。

自分の原理原則があって築き上げたキャラクター、ではないのです。

(その偏食も個性ではないか!という幼稚な反論には付き合いません)

しかし、そういう人は「それらしい雰囲気」はあるんですよ。喋り方も。容姿も。繰り返しますが「社会的なポジショニングが上手い」のです。一見、有名な人なんて興味がない、という態度を取りながら、実際にはそういう人たちにはしっかり媚を売って擦り寄ります。余計に大物感が出ます。

その雰囲気に騙されてしまうんですよね。

その人を信奉する人たちは、実際には浅はかなものに過ぎないものなのに、勝手に深淵な考えによるものだとして受け止めてくれます。そういうのを観て私は「ああ、人は信じたいものを信じるのだなあ」と思ったものです。

こういうケースはかなり多いものです。

伝統系でもこういう流れのものは多いです。

「何やらありがたいものらしいから、とりあえず手を合わせておくか」

という事で信じてしまう。

人をなんとなく信じさせてしまうような「雰囲気」はそこにはあるので。

「文化詐欺師」はどこにでもおります。


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