見出し画像

熊谷守一つけち記念館へ行きました

2023年7月末に、妻と岐阜の「熊谷守一つけち記念館」へ行ってまいりました。

ヘッダー写真は、熊谷守一の猫の着彩水墨画の栞にも使える入館チケットです。しゃれていますね。素敵なアイデア。

私は中学生の頃から熊谷守一の絵のファンで、ずっと追っているのです。

私が初めて熊谷守一の絵を観たのは、東京国立近代美術館の常設展で展示されていた「畳の裸婦」でした。

私が中二か中三だったか・・・サインが、厚塗りの絵の具が乾く前に筆の軸部分なのか釘なのか・・・何かしら棒状のもので引っ掻き書いた、あの有名なカタカナの「クマガイモリカズ」で、絵もああいう独特なものですから、何も知らない中学生の私は最初、山下清系の人なのか?と思ってしまいました。

その後、当時の後楽園球場至近の都立工芸高校デザイン科の学生になり、何かしらのデザインものの展示会、画廊めぐりなどをしていると(水道橋から歩いて皇居のお堀伝いに銀座へ良く行った)熊谷守一の絵を多く扱っている画廊が数件あったので原画の特に良いものをそれなりの数観る機会がありました。特にギャルリームカイさんは熊谷守一を沢山扱っていたので良く観に行きました。買えない学生が時折友人たちと訪れるわけですからギャラリーとしては迷惑だったでしょうが、スタッフさんはともかく向井さんは勉強して行きなさいという感じでありがたかったです。

ギャルリームカイさんはシムカという高い技術を持ったシルクスクリーン工房もやっていて熊谷守一の油絵を筆目も忠実にシルクスクリーンにしたものを販売しており、あれも欲しかったなあ・・・(熊谷守一のサイン入りのもの)もちろん高校生に買えるものではありませんでしたが。

ちなみに買えもしないのに価格を尋ねてみると1982年ぐらいの当時、4号の油絵はだいたい750万円均一で、サイン入のシルクスクリーンが20〜30万だった記憶があります。2010年ぐらいの情報では人気の油絵の4号で3,500万ぐらいから、それ程人気の無い作品だと1,500万ぐらいみたいですね。それは油絵の原画をお持ちのお客さまから伺った話です。自分では買えませんが絵の質の割に安いなと思います。また今は変わっているかも知れません。

それはともかく、

晩年の「熊谷様式」の、対象を具象とも抽象ともつかないシンプルな凝縮状態に形態と色彩を集約させたその絵は、鑑賞者である自分が絵を通り抜けてその元になった風景や物を自分の肉眼と感覚で観るよりももっと深く広く純粋に観ているような体験をさせるのに、私は魅了されて行きました。

「熊谷様式」以前の絵も、隅々まで感覚的で自由闊達で、西洋かぶれしていない、流行に流されていない、それゆえに常に斬新、いつ観ても新しい発見がある・・・

技術は洋画のものであってもその表現が純粋に日本のオリジナルな感覚であり、かつ文化の枠を超えた美を持っている事に感心しておりました。「いわゆる〇〇派」のような画風に属さない、ジャンルを超えた、どこにも無い絵なのです。輪郭線を塗り残して絵の具を厚く平塗にする画家は他にもおりますが、このような表現ではありません。

色彩は本当に独特で日本的で美しく私は「絵の裏側に電球が入っていてそれで光っているみたいだ」と観る度に感じます。

水墨や書にも独自のものがあり、魅力的です。(しかし、油絵に比べると水墨や書は、出来不出来がそれなりにありますね)

・・・といった具合に、私は高校生ぐらいからすっかり熊谷守一信者になり、藤森武氏による熊谷守一の写真集を購入したり、関連の本を買って熟読しておりました。それはもう、ファンとして。ミーハー心からです。

しかし熊谷守一は、美術界の派閥においても作風においても、いわゆる「〇〇派」というところにいないわけですから、どうしてもメジャーな人ではなく現在も「通好み」的な立ち位置のままですので、絵のみならずその生活スタイルや風貌への憧れによる文学的なニュアンスで書かれた本は沢山出ていますが、熊谷守一の作品論としてのものはあまり出ていない感じです。

あまりに独自の表現方法を持つ芸術家の作品は、後進の芸術家が制作する際に参考にし難いのです。そういう人のものは広がりにくい=メジャーになり難いものです。「あの画家の影響を受けてはいるけども、それを自分なりに消化・昇華したんだな」という風に持って行けないんですね。どうしても「あ、あの画家の真似だ」となってしまうので・・・

といっても、2016年の東京近代美術館で熊谷守一の大回顧展がありまして、そこではその生活スタイルや風貌ばかりに視点が行き勝ちの熊谷守一の画業をキチンと解説しており素晴らしかったです。

最近はキュレーターのレベルが上がったのか、キュレーションの手法が変わったのか存じませんが、色々な夾雑物を整理し本質的なところをキチンと見せる展示と解説になっている所が実に良いですね。そういう意味では同館での「柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年」も良い展示でした。

話がズレました・・・

熊谷守一は、美術論や絵について語るのを好まなかった所はあるようですが、意外に「みずゑ」などの美術雑誌、その他雑誌に対談やインタビューが掲載されていたようで、そこでは熊谷守一が美術論を語っているのですね。流行や美術界の政治から離れた視座からの意見は実に適切でうなるものがあります。ああいうものをまとめて本にしてくれないかなあと思っております・・・

そんなこんなで、ミーハーなわたくしですが、

現在の私の住まいからそれ程遠くない場所に、熊谷守一が亡くなるまで住んでいた家の跡地に建てられた「熊谷守一美術館」があるので、そちらへは若い頃から何度も行っておりました。

2022年に亡くなられた熊谷守一の娘さんの榧さんも良く美術館内のギャラリーやカフェでお見かけしました。私の年齢的に、流石に美術館になる前の実際に住んでいた家には伺った事はありません。

2015年に「熊谷守一つけち記念館」が出来たと存じてはおり、是非伺いたいと思うも、流石に私の生息地の東京から岐阜の付知 つけちは遠く、また交通の便の悪い場所にありますので、今まで行く機会が無かったのです。今回、妻が旅行を企画してやっと行く事が出来ました。(私は旅行や移動に関しては欠落という位に全く無力なのであります)

つけち記念館は収蔵物が充実しており、熊谷守一が日常使っていた画材や生活用品も展示してありました。そうそう、ウインザー&ニュートンの絵の具をずっと愛用していたらしいのが個人的にはちょっと意外でした。勝手に日本の絵の具メーカーのものを使っていると思い込んでおりました。

展示方法もライティングも良く、建物のデザインも良いです。展示している作品の点数も適切だと思います。建物の周囲の土地の一部は、熊谷守一の庭を再現してあります。門や郵便受けも再現してあります。庭には深く掘った池も再現してあり、それも良いものでした。

熊谷守一は故郷の岐阜県付知から、17歳で東京に出て来て、一時期、故郷の付知に5〜6年程戻った事はあっても、基本的に東京が拠点で、長く豊島区千早に住んでいたわけですが(現・熊谷守一美術館の所在地)創作の源になる部分は、故郷の付知の風景・文化・風習がベースであり、それを大切にしていたのが、つけち記念館の展示品や解説を観て、付知の風景に直接対面した事で良く分かりました。そういう面でも、熊谷守一ファンの方々は、つけち記念館を一度「聖地巡礼」する事をオススメいたします。

それと、熊谷守一は一般的に「仙人」だとか「気ままに絵の道を歩んだ」みたいな事を言われているのには、私は反対意見を言いたいです。

熊谷守一はちゃんと「画家」「芸術家」です。「花瓶に活けた花を描くのでも、地球の傾き具合が分かるようでなければならない」という位に厳格です。キチンとご自分が画家である事をしっかり認識して、生き、制作していたんですね。全然、絵に対しては気ままではありません。また、人々が想像するよりも頻繁に画家やその他芸術家、ギャラリーの人々とアトリエで芸術談義をしていたそうですし、一応は二科会やその他の美術団体などにも入って出品していた時期がありますし、その人間関係もありました。会の若手の絵の指導もしておりましたし・・・そういう人たちが頻繁に熊谷家に訪れていたようです。

画家なのだからそれは当たり前の話なのですが、何故か仙人のごとく美術業界や人と全く無縁に気軽に絵を描いて生きていたみたいな扱いなのは事実と違います。それはご自身の発言やご自身の本からそういうイメージになっているのでしょうけども・・・美術界の政治には全く関わっていなかったけども、気の合う美術関係やその他創作関係の人達とは関わっていたのです。

ちなみにご本人は仙人と呼ばれるのは嫌だったようです。「俺を仙人だとか言って近寄って来るヤツはロクなヤツがいない」と。

私は熊谷守一の聞き書きの本「へたも絵のうち」「蒼蠅」などはもちろん読みましたが、御本人のおっしゃる事は作者といえど、いやむしろ作者だからこそ、特に明治の男ですから自らの事はそれ程キチンと言わない事が多い。ですから鵜呑みにしてはいけません。

娘さんの榧さんや、絵を沢山扱っていたギャルリームカイの向井加寿枝さんの著作を読むと、外側から観た芸術家・熊谷守一がもう少し分かります。

熊谷守一は非常に頭の良い人であり画家で、知性のある人で(友人たちもスゴイ人たちばかりですし)「優れた理系脳に子供の感性がくっついたような人」で、生活スタイルも自伝では適当なような事を言っていますが、実際には自分の確固たる美意識を持ってそうしている人です。つけち記念館の収蔵物を観て改めてそれを確信しました。ただ、一般的に良しとされるものをそのまま受け入れる事は少なく、一般の人たちとは価値観が違う事が多かったのは確かです。

年譜を観ると、子供の頃から絵が好きで、明治の当時は西洋画で生活するなど、まるで叶わないような時代に17歳で絵描きになる、乞食をしてでも絵描きになると宣言する程に、非常に自覚的に画家になろうとしています。

東京美術学校(現芸大)を出てからも、なんだかんだ当時の芸術・音楽・文士の一流人たちや財界人と交流があり、常に周りから一目置かれていて、周知されている輪郭線を塗り残し色面を厚塗りの油絵の具で塗り分けた「熊谷様式」が出来上がる70歳代の前から、頻繁にでは無いにせよ展示会も企画され、作品集が出版され、作品は愛好家たちに買われていたのです。(幸か不幸か一部の愛好家や支援者たちがまとめて買っていたから作品が散逸していない)ただ、生活には困っても「売るために描く・書く」が全然欠落している人ゆえに、経済状況はいつも火の車だったようですが・・・ご家族は大変ですね。しかし才能と人徳から、常に友人や愛好家たちからのサポートがあり、どうにか生活は出来ていたとか・・・羨ましい・・・

かといって、生活能力自体が無いかと言えばそんな事は無く、何をやらせても器用ですし、ご自分でも、もし自分が商売をやったら成功しただろうという自負もあったようです。しかし自分が納得しない絵は残さないし画家としてそれを実行している、金のために納得しない絵を売って儲けようとか有名になろうとか権威になろうという気が無いから食えない、という感じだったようです。絵を描きさえすれば売れる状況ではあったのですね。

最近、私は私の好きな色々な分野のレジェンドたちの人生を調べ直したりしているのですが、彼らは他人から批判があろうと、苦難に陥ろうと、

「自分が納得行った事しかしない、納得行った作品しか残さない」

「自分の人生を生き切った」

という人生を送ったのです。

・・・これに尽きるなあ、と思います。

もちろん、これは例えば画家であるなら注文や依頼により作品制作をしない、という意味ではありません。熊谷守一であってもギャラリーからの依頼で絵を描く事もしましたし、油絵以外はファンからの求めに応じて気軽に描いたり書いたりもあったそうです。

人間は社会的動物ですから100%絶対に納得した事しかしない、納得行った作品しか残さない人はおりません。それぞれにその規模や加減が違いますが、その人の根幹部分には「納得」があったという意味です。

分野を問わず、そういう人のものが長く保ち、年月を経る毎に夾雑物が沈殿し、社会からの理解が深まり、ずっと光を放ち続けるのではないかと。

それでその人自身は、何かしらの資産があって生活に困らない人があり、自分のやりたい事と世相が合致して生活に困らなかった人があり、貧乏した人もいる。生前に評価されず貧乏で失意のまま亡くなったけども後から評価された人もいる。それは時の運。どうにもならない事はどうにもならない。

何にせよ、人は自分に出来る事しか出来ないのです。

例えば美術の巨人であっても、部分的に観れば、その巨人よりもテクニカルに上手い人、人気のある人、有名な人、お金を持っている人、権力のある人・・・その他その他、そんな人はいくらでもおります。もちろん、逆もあります。

しかし何にせよ「その人の人生はその人自身のものであり、その人の作品はその人にしか出来ない」のです。

他の誰かより、上手いとか下手とかいう話では無いのですね。

絵で言うなら、上手い人であろうと、下手な人であろうと、その人らしさが淀みなく素直に出ているものが良い。作品だけでなく、人生自体もそうです。

その人が自分の人生を生き切った事実、それが人の心を打ち、残された物は色褪せない。

「下手も絵のうち」

という、熊谷守一の言葉の通りです。

* * * * * * * * 

以下は「熊谷守一つけち記念館」の敷地にある、熊谷守一旧宅の庭を再現したものの写真です。館内は撮影不可でしたが庭は撮影OKでした。
(全てiPhone 13Proによる写真。画像クリックで拡大します)

「守一の庭」です。背景には付知の山々が。
門と郵便受けも再現されておりました。有名な表札はありませんでした。
水を求めて水が減る度に掘り進んで行ったら深い窪みになった、という池も再現されておりました。
庭の草花から、何となく、熊谷守一の絵を感じてしまいます。
この庭を管理している人たちも、この庭を大切にしている感じが伝わります。
私もこんな庭が欲しいです。

・・・今回は「熊谷守一つけち記念館」の話題でした〜!😊

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?