見出し画像

アーカイブ:ゆきがた座談会「白瀧酒造さんと」(前編)

「上善如水」で名高い白瀧酒造の富沢さんを迎えての「ゆきがた座談会」。「HATAGO井仙」の囲炉裏を囲んでアットホームに始まりましたが、酒蔵の歴史の話から理想の酒造りの環境、酒造りを司る「杜氏」とは?酒の味は誰が決める?酒造りに適した地下水の「仕込み水」とお酒の試飲など盛りだくさんの内容になりました。興味の尽きない内容のアーカイブをお届けします。
聞き手は株式会社井仙代表の井口智裕です。


白瀧酒造の富沢さん(右)と進行役の井口智裕(左)

三国街道沿いの居飲酒屋(いのみざかや) だった

富沢 白瀧酒造の酒造りは安政2年(1855年)。これは初代の初代の湊屋藤助(みなとやとうすけ) が没した年なんですが、そもそも生前の湊屋藤助が、家の庭先で湧く水を使って、今で言うどぶろくのようなお酒を作っていたことが始まりだと言われています。
酒蔵の玄関前が越後と江戸を結ぶ三国街道だったこともあり、三国峠を降りてきた行商人たち、またこれから峠をのぼる人たちを労って、身欠きニシンや漬物と一緒に振る舞っていたようです。
井口 居飲酒屋(いのみざかや) だったんですね。
富沢 はい。「馬子(まご)」と言って、馬に荷物を乗せて運ぶ人達が頻繁に三国街道を往来していました。
かつて酒蔵の前には幹が窪んだケヤキがあって、それは足繁く通う馬子たちが毎度そのケヤキに馬の手綱を結んでいたために窪んだと言われています。
現7代目社長のおじいちゃん、つまり5代目が若い頃には、まだ窪んだケヤキが残っていたようです。
井口 ケヤキが窪むほどって相当ですよね。それほど栄えていた。
今日は遠方のお客様も参加されているので少し補足すると、昔は北前船の積荷が新潟県・六日町まで来ていたんですよ。六日町が荷着場だったんです。ここまでは川船で荷物を運んで、そこから馬に荷物を乗せ替えて、六日街から峠を越えて群馬の方へ抜けていく。だからここ(湯沢) は陸路の輸送路だったんですよね。当時の湯沢はすごく物流量が多かったんでしょうね。
富沢 おっしゃるように北前船が日本海を通っていて、その運搬物にニシンがありました。だから身欠きニシンを酒の肴にして出していたんです。
富沢 時々「なぜ新潟でニシン?」って聞かれるんですけど、それは北前船の文化ですよね。棒ダラもそう。どれも乾燥食材ですよね。それを水に戻して使うっていうのは雪国の生活にフィットしたんでしょうね。
富沢 ところが、北前船の時代に六日町から馬子たちが物を運んでいたのが、時代が下って鉄道が延び上越線が開通すると、物流ルートが変わって激減したんです。街道から人がいなくなってしまった。当然酒の需要も激減し会社が窮地に立たされました。
富沢 それは馬子の人が利用しなくなったから?
富沢 そう、ガクンと売り上げが落ちたんですよね。
井口 白瀧さんは、いわばドライブインだったわけですよね。お酒を売っている酒蔵というよりは。
富沢 はい。ですが線路が開通したことで、誰も峠を通らなくなって。
井口 そういう時代があったんですね。
富沢 でも鉄道の為のトンネル工事をしますよ、ということになるとまた賑わったり。浮き沈みが激しかった時代ですね。
井口 ちょうど上越線が開通したのが1925年。井仙もその頃できたんですけど。白瀧さんは1855年から記憶が残っているけれど、上越線の開通(1888年) から1925年までは辛い時期だったんですね。
富沢 ええ。でも上越線を人がどんどん利用し始めると、群馬の高崎に白瀧酒造の支店ができるほどになったんです。新潟はその頃から酒蔵が多く有名でしたし、特に高崎のあたりで白瀧のお酒は親しんでいただけたようですね。群馬県に「白瀧会」という組織があって。それは白瀧のお酒を広める会なんです。ちなみに新潟には「新潟白瀧会」もあります。
井口 ちなみに「湯呑み居酒屋」の頃から瓶詰め商品を売っていたんですか?
富沢 その後ですね。
井口 ということは売り上げが落ちた頃に、小売を考えたわけですか。
富沢 そうです。当時はいわゆる量り売りしていました。お客さんが容器をぶら下げてやってきて。現在のように瓶詰め状態で販売するのはもっと後になります。
ちょうどその頃の写真が残っていて、まだ木造でしたね。当時はまだステンレスタンクはなくて、お酒も木桶の樽だったんです。(写真)
井口 上越線が開通した後の高崎支店にはどうやってお酒を運んでいたんですか?
富沢 樽です。
井口 樽で!?
しらたき:そうなんです。その後酒屋さんが一升瓶に詰めたりして売るという。
井口 そういう仕組みだったんですね。

夏は漁師、冬は杜氏。季節雇用の「野積杜氏」が生み出した清酒「白瀧」


富沢 むかしは、白瀧では季節雇用の杜氏を雇っていたんです。
現杜氏の先先代にあたります。長岡市寺泊の野積地区に杜氏集団がいたんですよ。彼らは、春は田んぼ農家、夏は漁師、冬は杜氏。
井口 「野積杜氏」って聞きますね。
富沢 その野積の杜氏たちは、いわゆる「泉流」という酒造りの流派で、その中の杜氏さんを招聘して「泉流」の酒造りが始まりました。
この時に出来上がった清酒が「白瀧」です。「白」は湯沢の雪、「瀧」は湯沢東映ホテルさんの上に流れる「不動の瀧」から名前を取って「白瀧」と名付けました。
井口 「白瀧」は社名でもあるけど、お酒のブランド名でもあったんですね。
富沢 従来の清酒「湊川」の上位酒として「白瀧」が位置付けられていました。
井口 なるほど。
富沢 その後二代続けて野積の杜氏を招聘していたのですが、その次の杜氏になった川合高明(かわいこうめい)さん は、後に日本を代表する名杜氏となり、“現代の名工”にも選ばれました。さらに、川合の弟子にあたる白瀧酒造の四人の杜氏たちが他の酒蔵へ派遣されました。新潟ですと〆張鶴さんは、白瀧から出た杜氏でしたね。
井口 そうなると白瀧さんのお酒は全て「泉流」を引き継いでいるという事ですよね?
富沢 そうですね。
それと新潟には「コシノロクハク」と言う酒があります。これは新潟で「白」のつく6蔵の酒をブレンドしたお酒で、白瀧酒造も参加しているのですが、みんな「泉流」の系譜なんです。
井口 白系はいわば仲間?
富沢 はい、「白」を冠するお酒を作っている蔵はそうです。
井口 へえ~これ知ってると、新潟でもちょっと自慢できますよね。
富沢 今はもう「泉流」ならではの技法は残っていないのですが、麹の作り方には非常に特徴があって、良いお酒を作るのに欠かせませんでした。
ただ彼らはいわゆる出稼ぎで、酒蔵の地元地域に住む人には決してその技術を教えなかったんです。
井口 なるほど、技術集団ですもんね。真似されちゃう。
富沢 そう。だから例えば湯沢在住の井口さんが酒蔵で働いていたとしても、彼らは井口さんに核心の部分はなかなか教えないんです。過去に自分たちの働き口がなくなってしまったという経緯もあって。
杜氏の親分がいて、そこから枝分かれした杜氏が必要な仲間を連れて蔵へ稼ぎに行くんです。
井口 ということは酒蔵の社長でも自分の蔵の酒のことを全て知らなかった、ということですよね。
富沢 そうなんです。
井口 杜氏っていうのは、人に教えないんですね。そして各地に出稼ぎに出ていた。
富沢 冬、酒造りの時期になると杜氏たちは地元から自分の仲間を酒蔵に連れてきて酒を仕込む。仕込みが終わった3月頃にまた地元へ帰り、それぞれ農家だったり、漁師に戻るわけです。
井口 その話を聞くと「清酒」は、一部の集落の集団しか作ることができない秘密ごとだったわけですよね。一般の人は「どぶろく」くらいしか作れない。
富沢 そうですね。その杜氏集団の技術が酒造りを確立していき、北海道から九州まで移動していたんです。
井口 てっきり「越後杜氏」というのは、雪国という日本酒が作りやすい環境で培われた技術で、それで越後の酒ってすごいと言われるようになったんだと思っていたんだけど、実は秘密の技術集団だったわけですね。
富沢 もちろん湯沢は雪に恵まれ、水に恵まれ、空気が綺麗で環境が整っていたという背景もあるんですが、それに加えて杜氏集団の技術がすごかったんですね。
井口 いやあ面白いですね。
富沢 先先代の白瀧の杜氏は、近くの八海醸造さんの杜氏さんと「今年の酒、どうだった?」という感じで酒の出来について話していたそうなのですが、実は杜氏同士、野積出身の幼馴染だったりするんです。
こういった情報交換は、時代がかわり現在では「新潟清酒学校」という教育機関で行われています。酒蔵の新人社員などは、一年で100日程度の授業を三年かけて学んでいます。そこで他の酒蔵さんと交流します。昔とちょっと違ってオープンな雰囲気ですね。

上善如水の誕生


井口:白瀧酒造さんの代表酒「上善如水」はどのように誕生したのでしょうか?

(以下後編に続きます)
後編はこちら


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?