見出し画像

そこにいるか 本当にそこにいるか

毎年、寒くなり始める頃に調子を崩し、心も言葉も動かなくなる。毎日コツコツ食事を作り、仕事をし、ただ繰り返すことに集中してやり過ごしていた。手のかかる食事を沢山作り、冷蔵庫に眠っていた小麦粉でケーキやパンを焼いた。

友人達とアフタヌーンティへ行き、動けなくなるまで食べた。

運動会があった。ダンスが揃っているかなんてどうでもよくて、1人の人間として社会生活を送っているのが興味深く、じっと見た。

AKIRAのセル画展へ行った。レイヤーが分かり感動する。直筆のレイアウトをみて、大友克洋は実在するのか、と納得する。そのだでチャーシューエッグ定食を食べた。

引っ越した友人の家に夜中自転車で遊びに行く。間取りが変わっても人間が同じなら同じ家になる。家は空間や明るさや匂いのことだと思う。「スピカの電気を点けて」と言うと、スピーカーが返事をしリビングをオレンジ色に灯した。日付が変わる頃、自転車で帰宅した。

アフタヌーンティに行った友人と、鶴橋を散策した。大阪に20年以上住んでいるが、初めて歩いた。揚げパンを食べ、小さいキンパを食べ、おでんを食べ、チーズハットグを食べ、シナモンが入った甘いお茶を飲んだ。汚い串焼き屋で生のコブクロを食べた。他の動物の子宮を生で食べる貪欲さが少し怖くなる。自宅で夜中まで喋る。複雑な家庭の友人に家系図を書いてもらったが、紙の横幅が足りなかった。家系図の縦軸は時間の経過だが、横軸は感情の振れ幅だ。

娘が図書室で借りてきた、日本の神様をアニメ調の絵で紹介した本を一緒に読む。イザナギノミコト、イザナミノミコト、天照大神とか。「この神様かわいい」などと言うので「本当はこんな顔してない、顔とか無いかもしれない」と言ってしまい、説明の収集がつかなくなる。神様って本当はいないの?じゃあ神社の中には何があるの?矢継ぎ早に質問される。神様がいると思う人にはいるし、いないと思っている人にはいない。どれを信じてもいいし、信じなくてもいい。というようなことを苦し紛れに伝える。

会社の屋上でバーベキューをした。私は自宅からギターを持っていっただけで、何も手伝わずただダラダラと喋り食べ続けた。時々ここが会社なのかどうか分からなくなる。酔って泣いた同僚と社長と私と3人でハグをした。私も意味も分からず少し泣いた。

レイトショーで愛のイナズマを観た。

ドタバタ家族コメディみたいな予告編に仕上げているが、脚本で殴られた気持ちだ。

家族映画にあるハグはクソ演出であるが、本当のハグの意味は存在の証明にある。恋愛以外、具体的には性欲以外でのハグの正しさを名言され、涙の理由が少し分かった気がした。そこに確かに存在しているということが大切なのだ。生きているうちに、生きていたということを証明しておくこと。

冒頭、若手映画監督の主人公がベテラン助監督に「このセリフの意味は」「このシーンの意味は」など、理由や根拠を問い詰めるシーンがある。主人公は「意味も理由もない、突発的なことは起こるんだ」と答える。助監督は、理由が無いことなんて絶対にない。未熟だから分からないだけだ、などと更に追い詰める。「理由がないけどそうなんだ」そこで思考を止めること、いつの間にできなくなってしまったんだろうな。ハグされて泣いちゃった、それだけで素晴らしいことなのに。

飛び降り自殺しようとする人に「さっさとやれよ」と煽る野次馬は、台風が少し楽しみな私に似ていた。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?