冷戦 その4 イデオロギー対決

検証ポイント3:冷戦のイデオロギー対決は必要だったのか?
不思議な質問と思われるかもしれませんが、ある意味主要アクターのキャラクターをこれほど如実にあぶりだせるテーマもないように思いますので、取り上げてみたいと思います。

端的にいえば、アメリカがイデオロギー対決を真正面から受け止め、資本主義陣営の雄という役を嬉々として演じなければ、冷戦はヨーロッパ周辺に留まり、「世界の主要な戦略拠点から遠く離れた」*新生独立国で代理戦争をする必要はなかったと考えます。

なぜなら、スターリンからしてその本質において、共産主義者である前にリアリスト兼帝国主義者であり、そのために同じ性質のチャーチル首相と話がかみ合い、以前お話しました英露間のグレート・ゲームの延長線として、パーセンテージ協定ができたのです。またスターリンの後継者たちも、アンゴラやエチオピア等での共産主義化が、アメリカのデタント姿勢を覆すほどの重みを持つとは夢にも思わなかったということは、共産主義者である前にリアリストたちなのです。リアリストたちには、抽象論のイデオロギーよりは実のある国益の方を優先するので、互いが理解可能な共通のゲームのルールが生まれます。

イデオロギーに惑わされず、ソ連を通常の大国として、リアリズムの思考で向き合えばよかっただけの話です。戦後直後アメリカは、ユーラシア大陸での安定が自国の安全保障に重大な影響をもたらすため、ヨーロッパの安全保障に積極的に関与しなければならないという第二次世界大戦の教訓を、しっかり胸に刻んでいたのは分かります。しかし、ヨーロッパ的棲み分け思考に基づく世界秩序をナチスドイツが破壊したからといって、全否定する必要もありません。この思考は、長い年月と流血を経た末にできた人間の知恵なのですから。

言い換えれば、真っ当なリアリストのイギリスがアメリカの立場であったら、現実に起きた代理戦争のほとんどが回避できたのではないかと推測しています。

ではなぜアメリカは、ソ連以上にイデオロギー対決にのめり込んだのでしょうか?むしろ、ソ連が勝手に介入し、失敗する様を、嗤って高みの見物しようとしなかったのでしょうか?そもそも、共産主義は資本家を全否定しますから、独立運動の中核を担う、あるいはその支持基盤に最もなり得る中産階級を敵視することに繋がり、実際スターリンもそのように各地の共産主義者に指導していました。ですから、共産主義に傾倒する国家がほとんどないと考える方が、自然なのです。

アメリカには無邪気な一面がある
大きく3つ要因があると考えます。一つは、アメリカ人が「邪悪な共産主義と戦う自由世界のリーダー」役、いわゆる正義のヒーロー役が大好きであるということです。元々アメリカには「Manifest Destiny」(明白な運命)という思想があり、造語された頃はアメリカ西部開拓を正当化する言葉でしたが、やがて自由や民主主義を世界に広めていこうというコンセプトに転換されました。自分たちは(完璧ではないが)素晴らしい社会を苦労して作り上げたので、これを世界中に広めましょう、世界中の人々が喜ぶはず、という思考回路です。かなり無邪気な発想であり、「小さな親切」と呼ぶべきでしょうか。。。

確かに、このおかげで日本は戦後アメリカから賠償金を請求されませんでしたし、逆に食料等の物資・資金援助を受けました。ヨーロッパやその他資本主義を志向する新生独立国等へも、気前の良い復興資金を与えられました。しかし、これらの援助は政治的思惑の産物でもあります。受益者がアメリカの意向に沿う言動を求めながら、同時に感謝も求めます。受益者はギブ・アンド・テイクと受け止めている場合が多いので、そのような感情を求めるべきではないのですが、アメリカは無邪気に失望します。

但しここで注目すべきは、冷戦終結までにその無邪気さを反省するタイミングがなかったということです。建国当初は、自らの考えを他国に強要するほどの経済力や軍事力を持っていませんでしたし、その伝道による国益を認識していませんでした。しかし、ユーラシア大陸の戦争に二度も参加させられると、積極的な海外介入が、将来の戦争参加を回避するためのリスク対策であると考えられるようになります。そしてルーズベルト大統領によって、アメリカは、第二次世界大戦末までには、全世界に派兵が可能な大国に変貌していました。そこで、介入の範囲はどこまでかと考えたときに、世界中どこまでも、となりました。

確かに、冷戦中アメリカはベトナム戦争を経験し、無制限に他国へ介入するには、アメリカの資源は十分ではないと悟ります。しかし、それは介入すること自体、すなわち自らの意見を他国に押し付けること、ひいては他国への不十分な尊重に解釈されやすい行為、を反省したわけではありません。一方以前お話しました通り、ソ連は共産主義の「本家」だからというアイデンティティから各地の共産主義者を経済・軍事支援(介入)しましたが、ゴルバチョフ書記長登場までに、現地での指導が長期的にみれば全般的に上手くいかず、この支援そのものが正しかったのかと反省しました。ソ連とアメリカは、この点で対照的です。

そして、他国介入への反省の欠如が、今日のアメリカ外交でも見られます。例えば、未だに自由世界のリーダーとして、独裁体制への批判を中国やロシアに投げかけ、中国は猛烈に内政干渉であると、アメリカを非難しています。今後こうした姿勢が、アメリカにどのような影響を招くかは言い当てることは難しいですが、あまりいい影響にはならないでしょう。

アメリカ政権のプロジェクト思考
二つ目の理由として考えられるのは、各政権の立役者たちがプロジェクトとして、直面している課題に向き合う性質が多分に見受けられる点です。そのため、前政権が設定した課題の定義や前提が間違っているに違いない、ではこれらを見直し、最適解を「実行」しようという思考になります。逆な言い方をすれば、冷戦のように歴代政権が何かしら取り組んだ課題に対し、ソ連が勝手に失敗するに任せればいい、と放置する選択肢は考えられません。プロジェクトなので、アメリカが何かしら能動的に動いて成功するマインドセットしか描けないのです。(華々しい活躍をする自分をイメージ、アピールできないからでしょうか。。。)

この点もアメリカ政権の思考の癖として認識していると、今後の動きも分かりやすいかもしれません。

共産主義経済の輝きは長続きしなかった
最後の理由として、共産主義経済には瞬間的に輝く場合があり、人々はその目覚ましい経済成長ぶりに幻惑されることがあります。但し、それは特殊な場合だけです。以前満州のお話のときに触れましたが、軽工業から重工業へ移行する際に、国家が経済計画を立て、資本や資源を積極的に重工業に配分すると、重工業は莫大な初期投資を要するので、資本や資源の制限や競争による資本・資源の消耗リスクを自由経済よりも心配することなく、効率よく大量生産が可能となります。結果、「1950年代末まで、東ヨーロッパとソ連の統制経済は飛躍的な発展を遂げ、経済成長率でも西ヨーロッパを上回る状況が続いた」**ほどでした。

このため、当時は実際にソ連や共産主義が大きな脅威であったのは分かるのですが、問題はその後です。「しかし、1960年代に入ると、トップダウン型の計画経済モデルがさまざまな問題を内包していること、また、当時高まりつつあった消費者の需要を東側陣営が満たすことができないことが次第に明らかになっていった。その結果、経済成長は目立って鈍化していったのである。」**

不幸にして共産主義経済の教科書に、経済鈍化時の対応方法は書かれていませんでした。そしてソ連の歴代書記長は、西側陣営に対抗するメンツを保つためか、軍事力増強に走ります。「最新兵器の分野でアメリカに対しパリティ(均衡)を打ち立て、さらに可能ならここで優越できれば、その他のほぼすべての分野で競争能力を失っても構わないとさえ考えた。」***しかし当然、その軍事力を支えるのは経済です。経済を犠牲にしての軍備拡張であれば、短期的には頑張れるかもしれませんが、長期的には破綻が見えている決断でした。

とはいえ、西側陣営にすれば、ソ連の軍事力そのものが脅威として浮上し、ベトナム戦争により軍事力以上にその威信を大きく損ねたアメリカは、ニクソン政権以降軍縮交渉を提案していきます。ソ連は内心喜んだでしょうが、用心しながら交渉していく構図が、1970年代からの潮流となっていきました。

但し、冷戦終結は資本主義の一方的な勝利ではない
最後に、冷戦がソ連崩壊でアメリカの勝利であると言われますが、決して資本主義の一方的な勝利ではないことは言っておきたいと思います。

共産主義が生まれるには、資本家の過剰な搾取が社会問題化した背景があり、西側諸国政府は、様々な労働規制を設けていきました。例えば日本の場合、労働基準法があり、最低賃金の設定、児童労働の禁止、時間外労働の上限規制等が設定されています。また、1970年代に社会問題化した企業の環境汚染に対する、政府による環境保護規制が設けられる等、資本主義の暴走に一定の歯止めがかかるようになりました。これらは、労働者保護を謳い、資本家は社会悪という共産主義の主張の一部を認めた結果なのです。

これ以上に、植民地が放棄されることで、資本主義の派生である植民地主義が「敗北」したかに見えます。しかし、本当のところはどうなのか、アフリカを中心に次回お話したいと思います。

* O.A.ウェスタッド著  「グローバル冷戦史」
**ロバート・マクマン著 「冷戦史」
***ヴォイチェフ・マストニー著 「冷戦とはなんだったのか」


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