不安定な韓半島 日韓併合まで

2024年1月に北朝鮮は半島統一という従来の目標を放棄し、韓国を同胞ではなく外国、しかも主敵とみなすと宣言しました。もちろん、韓国の尹錫悦政権にとっての中間選挙と位置付けられる、同年4月の韓国総選挙に影響を与え、親日・米姿勢を打ち出す現政権へ打撃を与えようという意図はあるでしょう。しかし、それだけなら何もせっかく父・金正日総書記が建てた祖国統一三大憲章記念塔まで破壊する必要はありません。金正恩政権には、それまでの路線から逸脱した面が見られていましたが、今回の唐突な宣言の真意を測りかねているのが、正直なところでしょうか。

なぜかくも北朝鮮問題はこじれているのか、この厄介な国を作った責任の一端は日本にありますので、改めて江戸時代から韓半島の歴史を見ていきたいと思います。

幕末までの韓半島
江戸時代、日本における韓半島との交渉窓口は、対馬藩でした。戦争ともなれば、元寇の際のように一番に戦火を交える地ではありますが、平和時には日本と韓半島との貿易の仲介役として利益を得る人々です。豊臣秀吉の朝鮮出兵の戦間、戦後処理においても活躍しましたし、事を穏便に進めるため、必要とあれば国書の漢文訳の改ざんまで行ったと言われます。とはいえ、徳川政権は、李氏朝鮮(李朝)と対等な交隣外交を望んでいましたので、平穏な時期が続きました。

なお李朝は、元々高麗が明と現在の中国東北地方で争っている間に、高麗の李成桂将軍が敵の明と秘かに手を結び、反乱を起こし、高麗を亡ぼしたことから興った国です。当然のことながら明、さらには後継の清とも朝貢関係を結び、事大主義(小は大に仕える)外交を展開し、概ね良好な関係を維持していました。よって、隣国との平和な関係を築くことができ、対外的には安泰な日々でした。

また、国内的には儒教を広く徹底させていました。このことが後々に悪影響を与える結果となります。そもそも儒教とは、戦乱の世が続く中国において王と民の理想的な関係、社会を描いた思想です。王がきちんと民を慈しみ、科挙試験で選抜した優秀な人物を高級官僚に据え、善政を敷けばよいのですが、そう描いた通りにならないのが、世の常。

儒教の世界で一番光り輝く存在は、当然提唱者・孔子の弟子たち(儒家)であり、彼らは科挙を通じてその能力を競い、高級官僚への道が開けるという希望が与えられます。高級官僚となったら、その子弟は当然科挙に合格するべく、幼少から勉強させられるわけですから、やがて合格者を出せる家が固定化し、貴族化していきます。一方、民の大部分を構成する農民や商工人は一段低く見られ、さらに女性は男性に従属させられる存在に成り下がります。こうした人々は社会的地位を上げたくても、厳しい科挙試験に合格できるはずもなく、身分は低いままです。すなわち、社会が実質的に職業身分制で固定されることになりますが、こうした人々への救済の道を、儒教は提示しません。ひたすら儒学を学び、徳を積むべし。

そこに、対外的な戦争がない状態ですから、統治者側に緊張感がありません。外国から攻められても、撃退できるほどの国力、すなわち国防が求める規模の軍隊を養えるだけの国を富ませる施策を怠らない努力をする必要性を感じなくなります。

これでは、新しいものを積極的に摂取し、健全なイノベーションを受け入れることはあまりなく、保守的思考、あるいは思考の硬直化が社会に浸透します。事実、明や清への関係を通じ、李朝には西洋事情やキリスト教が伝来しましたが、宮廷では保守派が開明派を粛清し、西洋を研究する芽を摘んでしまいました。一方、儒教では下層と見られる人々の間で、万民は平等とするキリスト教や東学党(新興宗教)等が支持を集めます。(儒教にすれば、危険思想に映ります)

ここにもう一つ、ひねりが入ります。すなわち、明が清に代替わりした際、小中華思想が李朝に生まれます。清は、漢民族ではない北方民族が漢民族を支配する帝国です。そのため、明という本家がいなくなってしまった今、中華文明を正しく継承しているのは、李朝しかないという思想です。(完全に李朝、その後の韓半島にしか通用しない思想ですが、どこか自らを実力以上に考える癖が続いているような気がします。。。)その割には、明の時と同様朝貢関係を続けているので、屈折した想いが加わります。

日中韓の開国までのスピード感の差
教科書風に書けば、明治期に入ると、日本は西洋技術を積極的に取り入れ、富国強兵を推進した一方、旧価値観に固執した清や李朝と対立し、日清・日露戦争を経て、1910年日韓併合に至った、となりますが、ここでは3か国の明暗を分けた状況判断と方向転換のスピード感の差は何かを考えてみたいと思います。

この三か国で西洋が一番目を付けたのは、その市場規模及び、陶磁器や茶等垂涎の品満載の国、中国であることは間違いありません。そして、最初に西洋と戦争したのも、中国が最初です。悲しいことに、戦争は彼我の力の差を測る、唯一分かりやすい、耳目を集めやすい方法です。ここで、事に当たった林則徐らが西洋の研究を開始しましたし、その後清政権内にも康有為等開明派が西洋から学ぶべきと主張しましたが、西太后ら保守派に阻まれ、実権を握れず、日本へ亡命せざるを得なくなりました。開明派が中国で実権を握れるのは、日本の援助を受けた在米華僑である孫文率いる中華民国が成立した1912年です。1840年のアヘン戦争から、実に72年かかりました。

李朝の場合、あまり知られていませんが、フランスやアメリカ艦隊も江華島まで来たことがありましたが、これらを撃退しました。相手が本気腰ではなかったようで、その後の報復がなかったのですが、これで李朝はますます自信を持ってしまいました。そうした背景の中、金玉均ら開明派が開国を主張したものの、やはり三日天下で日本へ亡命せざるを得ませんでした。

一方日本の場合、アヘン戦争を知り、その後の林則徐らの西洋研究、同時期にアメリカ宣教師が書いたアメリカの紹介書「海図図志」を幕末の志士たちが読み、さらには自らも局地的に薩英戦争、四か国艦隊下関砲撃事件等を経験し、その彼我の差を思い知り、事態の対応が難しいと感じた徳川幕府から明治政府へと、分権政治から中央集権へと変貌を遂げました。1853年のペリー来航から大政奉還までわずか14年というスピード感です。

この差は、もちろん中国と日本とでは国のサイズ感が違いますから、そう簡単に比較対象とすべきか、議論の余地はありますが、一つには、清と異なり、日本では武士が支配階級であったため、戦争での敗北がもたらした事の重大性を理解しやすかった面があったでしょう。しかし、それ以上に幕藩体制という分権政治体制が大きかったと思います。

すなわち、西郷隆盛や木戸孝允等は幕府(中央政府)と異なる意見を主張していても、外国へ亡命することなく、藩という自治体の中で生存を許され、やがて反幕府勢力をまとめ上げ、明治政府を作り上げることができたわけです。思考の多様性が許された政治体制であったことが、日本に幸いしたと考えます。(但し、そうした志士たちが作り上げたのが、中央集権政府であることは皮肉ですが。。。)

リアリズムの欠如
さて、フランスやアメリカ艦隊を撃退できた割には、国内で起きた東学党の反乱に李朝政府は手を焼き、清へ援軍を求めるという致命的なことをしました。清が西洋との戦いで敗北する等弱体化を見せている中、国際情勢にあるのか、またそもそも宗主国とはいえ他国に援軍を求めるべきか、判断できなかったようです。特に、かつて新羅が唐と連合し、高句麗と百済を下した際に、現在の中国東北地方の大部分を譲った歴史を鑑みれば、中国軍を国内に引き入れることの代償の大きさにも頭が回らなかったのでしょうか。基本的に農民の反乱なので、交渉次第で折り合いがつく可能性もあったでしょうに。

この致命的な要請を出した代償は、李朝にとりやはり大きなものでした。その頃には、清と日本との間で韓半島を巡る鍔迫り合いがある状態でしたから、清が韓半島へ援軍するということは、日本も同地へ軍を進める結果を招き、なるべくして日清両軍の衝突が起き、日清戦争は日本の勝利で終わり、返す刀で東学党の乱も鎮圧しました。これで李朝への日本の影響力は大きくなりましたが、三国干渉の結果、日本がロシアに屈したのを見るや、李朝宮廷は日本への牽制球としてロシア・カードを使おうとするわけですが、日露戦争での日本の勝利を受け、やがて日本統治下に入ることになりました。

さて、ここで考えたいのは韓半島のリアリズムの欠如です。確かに、韓半島は不完全燃焼の状態で外国の支配下におかれました。自国軍は日本軍とも一度も戦っていませんし、自国の主導権を巡り、日清戦争の戦場となっただけです。つまり、日本や中国が味わったように、戦争による彼我の差を強く認識し、自らの力を付けるべきだという結論になりにくかったのでしょう。また、周辺国のパワーゲームの結果として、自らの運命が決まってしまいました。そのため、不完全燃焼によるやるせなさから、諸悪の根源は目の前の日本だと考え、3.1事件等の反乱を起こしたくなる気持ちは分かります。

その一方、自らの無知、弱さを認識し、日本や西洋から学び、強くなろうという自助努力といいますか、リアリスト的発想が、成熟途上である点も注目すべきでしょう。確かに李光洙のような啓蒙活動を行った人物もいましたが、白眼視される始末でした。

中国の場合、易姓革命という概念があります。時の王朝が国を治めるに値しない存在でしかなければ、民がこれを倒してもやむなし、という考え方です。儒教は清王朝が国難を乗り切れないのなら、革命を起こし、新しい政府を建て、自国の力を養うべきであり、実際孫文らが日本の有志の支援を受け、辛亥革命を成功させました。

成功した革命家は、皆リアリストです。単にイギリスが嫌いだ、アメリカは悪いとか、考えません。彼我の差はどこにあるのかを、真剣に考えます。例えば、蒋介石は当時の日本人を観察し、儒教の分派的な陽明学の「知行合一」思想が日本を強くしていると分析し、日本から見習うべきものは見習おうという姿勢であったと言います。

リアリズムが韓半島でコンセンサスを得るには、日本統治期間35年は短すぎたのでしょうか。


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