すれ違いの米中関係 その1

絶妙な2024年台湾総選挙
2024年1月台湾での総統選挙は与党・民進党、第一野党・国民党、第二野党・台湾大衆党の党首による三つ巴でしたが、反中派と呼ばれる中国警戒派、親中派、とその中間としてよく政策の違いを説明されていました。親中派とその中間が、野党として統一候補に絞ることができれば、政権交代もあり得ましたが、統一できずに与党が総統選を制しました。その一方、立法院では与党が過半数席を失い、いわゆる「ねじれ」現象が誕生しました。

台湾人は実に選挙の意味を心得ていると言えます。この民意のメッセージは分かりやすく言えば、引き続き与党による中国警戒政策を支持しつつ、過剰な反中刺激政策はいけない、ということです。要するに、現状維持希望ということになります。(但し、予算を握る立法院を親中派が握ったので、どこまで対大陸防衛費を許容するかが、今後の課題となります。)

一方、以前の選挙同様、中国共産党が親中派の国民党への誘導を試みる選挙介入をしましたが、今回も失敗しました。威圧的な態度では、相手の態度は硬化するばかりであるということを十分に学んでいないようです。

そして、日本やアメリカのメディアも、総統選の結果への注目が大きいです。そこだけから読み取れるメッセージが、日本やアメリカにとり歓迎すべきことだからです。人は見たいものを見、聞きたいものを聞く、その典型例ではありますが、全体を理解したことになりません。

今回はそうしたすれ違いを続けてきた米中関係を見ていきたいと思います。

中国皇后号と清華大学
アメリカと中国の最初の出会いは、アメリカ建国の父の一人が派遣した貿易船、中国皇后号による来航と言われています。中国皇后号による貿易の収益率が25%であったと言われ、その後も往来が続きました。この頃既に列強が中国に進出済みであり、建国後アメリカも仲間に入れてほしいと、ジョン・ヘイ国務長官が門戸開放宣言を出したことは有名です。そのためというわけではないでしょうが、アメリカ商船は、イギリス商社同様にインドからインド産アヘンを中国に運び、莫大な利益を得ていました。

一方、アメリカからの宣教師が中国で活動し、その一環でアメリカを中国語で紹介する文章を書いたことから、中国の一部の識者内ではその成り立ちから列強とは異なる国らしいと理解されていたようです。また、アヘン戦争の敗北を受け、清の高官、林則徐らが列強の研究をし始めていました。ちなみに、この時の研究書、「海図図志」が日本の幕末の志士たちに読まれ、募らせた危機感が、明治維新に結実しましたが、残念ながら肝心の中国ではほとんど注目されないままに埋もれてしまいました。

その後、義和団の乱がおき、被害を受けた列強各国へ清政府から賠償金が支払われますが、アメリカ政府はその賠償金を、アメリカに留学したい中国人学生への準備学校設立に使います。これがやがて拡張し、中国の名門大学、清華大学として今日まで残っています。第二次世界大戦後ヨーロッパ復興支援金・マーシャルファンドへの返礼金としてドイツからアメリカへ1972年渡された金額を全額ジャーマン・マーシャル・ファンド設立に振り向け、米独間関係の緊密化に貢献する団体を作った事例と同様、こうしたお金の使い方は、非常に興味深いです。一方で列強の片棒を担ぎ、アメリカ国内横断鉄道建設等のために大量の苦力として中国人労働者を国内に運び、搾取しながら、他方で学びたい中国人を留学生として受け入れる、人間とは矛盾を抱える動物なのでしょう。

第二次世界大戦前後の同盟関係
日本が太平洋戦争を始める前夜から、ルーズベルト政権には、蒋介石政権を支持する必然性が生まれます。対ドイツ戦に向けて準備を進めていたものの、対日戦まで手が回るはずもないアメリカとしては、なるべく中国大陸に渡った100万人もの日本軍をその地にとどめ置きたいという思惑があるからです。

両者の橋渡し役として活躍したのが、蒋介石の妻・宋美齢です。宋一家は中国の中でもイギリスの勢力圏にあった上海を中心とする浙江財閥の一つであり、イギリスの金融界にコネクションがありました。そんなルートを通じたか、宋美齢はアメリカに留学し、その流暢な英語を駆使し、戦中ワシントンへ行き、米議会で対中支援を訴える演説を行いました。(今日でもいざというとき、このようなことができるだけのコネクションや英語力、世界の大物と渡り合える力を持つ日本人女性は何人いるでしょう?)

ちなみに、蒋介石自身は日本留学経験者、息子の蔣経国はソ連留学経験者、と蒋・宋ファミリーだけでも、世界に幅広くコネクションを広げています。この幅広さを、日本は見習いたいものです。

このようなコネクションを駆使できたため、ルーズベルト政権内での、日米間の戦争回避に向けた動きを察知し、ルーズベルト政権へけん制したと言われています。そんな蒋・宋ファミリーは、ルーズベルト政権の思惑は理解していたでしょう。カイロ会談でも、宋美齢の兄にして国民党政権の財務部長(財務大臣に相当)が、「秘かに日本からいい条件をもらった」等といい、さらなるアメリカ支援からのを引き出そうと交渉していました。

一方、カイロ会談に出席していた米英は、常に宋美齢のサポートを必要とする蒋介石のリーダーシップ力を疑うようになり、戦後の世界秩序構築の話から疎外されていきます。日本への情報漏洩を懸念したともいわれますが、ソ連の対日参戦等について蒋介石は知らされませんでした。尤も、蒋介石政権には戦後アメリカの代わりに日本本土へ軍を進駐させ、軍政を敷くといった余力はありませんから、戦後の世界秩序への発言権は、自ずと限定されることはやむを得ないでしょう。

但し、ここで注目すべきは、アメリカがスティルウェル将軍を始めとする軍事顧問団等を蒋介石政権に送っておきながら、国民党軍と人民解放軍の関係、能力の差や中国大陸内での両軍制圧分布等について十分な知識を持たなかったことでしょう。もちろん、国民党政権の腐敗ぶりは見知っていたはずなので、対日戦終結後国民の支持を十分に得られるのか、また対日戦終結後すぐに国民党政権が中国大陸全体に統治を行きわたらせるだけの体力を持っていたかどうか、もっと検討しておくべきだったように思います。

やはりプロジェクト思考の強いアメリカ人だからでしょうか、日本降伏プロジェクトの目的とは異なる事象には注意をあまり払わず、敵については真剣に学ぶ割には、味方について敵よりも理解をおろそかにしてしまうのかもしれません。

もちろん、戦後日本の無抵抗ぶりを見たアメリカ軍人の中には、早い段階で日本は落ち着いているので、大量の兵力は不要であり、むしろ中国大陸に目を向け、対中国共産党戦に向け国民党支援に注力すべきとマッカーサー将軍等に訴えた者もいました。しかし、フランクリン・ルーズベルト大統領に「最高の軍人にして、最低の政治家」と評されたマッカーサー将軍には通じませんでした。(トルーマン大統領の次に大統領となったのは、対ヨーロッパ戦線を率いたアイゼンハワー将軍ですから、対アジア戦線を率いたマッカーサー将軍も大統領に、と考えてもおかしくありません。中国大陸にかまけず、できるだけ早急にアメリカに帰国し、大統領選の準備をしたかったのでしょう)

そして1949年、中国共産党の北京入城のニュースで初めて、アメリカは中国大陸を失ったことに気付くことになったのでした。アジアでの最大の出来先機関の長たるマッカーサー将軍等は、中国情勢を最もよく理解していた旧日本軍人に囲まれていたのにも関わらず。さらにいえば、旧日本軍将校の有志たちが蒋介石政権支援に回り、蔣介石が台湾に逃れた後も約100名が軍事顧問団(白団)となったというのに。そして、味方の国が中国に対する深い知見があることを知らずに、再び後述する同じ過ちを繰り返すことになります。

なお、国民党が中国の人々の支持を失った最大の理由は、戦後直後の超インフレ対策の失敗にあります。「1945年9月の紙幣発行総額は1937年の45倍になった。戦後も政府の支出が続いたため、超インフレが再燃、1946年1月から1948年8月に至る二年半の間に物価は67倍となった。輸入が制限されなかったため、国内の資金が国外に流出すると共に外国ドル及び金が国内で流通し始めた。この悪循環を断つために1948年8月の「幣制改革」で古い通貨を廃止して「金円」に変更、個人の所有している地金と外国通貨が内戦を賄う資金として強制的に交換させられた結果、最も反共的な市民であった都市の中流階級に残されていた国民政府への支持は全く消えてしまった。「金円」は1948年末に崩壊し、物価は6か月の間に8万5000倍に上がっていた。」*

アメリカが蔣介石政権をもっと深く理解し、幣制改革を行う前に資金援助していれば、中国大陸は現在とは大きく異なる姿だったでしょう。

*松尾文夫著「アメリカと中国」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?