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カッシーラー『アインシュタインの相対性理論』要約 / 第2章 相対性理論の経験的基礎と概念的基礎

注意1:以下はカッシーラー著『アインシュタインの相対性理論』(山本訳、河出書房新社)の要約です。概ね本文の流れに沿っています。筆者(このnoteの)の意見や解釈を述べたり、本文の流れから外れる際は「❕」で明記します。それ以外の部分は、日本語的に筆者の意見に読めるようなところも、基本的には全て本文に依拠しています。というのもいちいち「カッシーラーによれば~」とか「~とカッシーラーは述べている」と書いていると煩雑だからです。とはいえ、要約している以上は筆者の言葉も多分に入り込んでしまうことはご了承ください。
注意2:便宜上、節に分けて見出しをつけています。元の本には章による区切りのみでこれらの見出しはありません。


前章


1.思惟の弁証法とアインシュタインの決定的な一歩

 相対性理論はどのように経験に基礎づけられているでしょうか。つまり、これまで得られた実験的事実との関係です。種々の経験的所与から理論が作られるとき、われわれの思惟が何らかの役割を果たすであろうことは否定できません。思惟の働きとはどのようなものでしょうか。感覚論的な立場から、経験とは多くの経験的所与のよせあつめとみるのか。そして思惟は所与を整理するに過ぎないのか。あるいは、批判主義的立場から、経験とは所与が思惟の固有の形式によって結び付けられたものであるのか。思惟は単なる事実の整理以上の機能をここで発揮するのか。
 このような知覚と思惟の関係についての問題の分析がプラトンに見いだされます。プラトンは、知覚の内のある部分は思惟を喚起するが、ある部分はそうではないと考えた。知覚の弁証法が思惟の弁証法を呼び起こす。知覚のうち、主張と反論によって展開されるという思惟の傾向、この緊張関係に対応した部分が思惟を呼び起こすということです。

諸知覚がお互いに矛盾している場合、それらがお互いに相手を廃絶しようと脅しあっている場合、このときはじめて思惟の根本的要請、つまり、その無条件の統一の要求が生まれ、経験それ自身の変形・再編成が必要とされる。

p.40

❕ この部分は経験における思惟の役割について問題を提起していますが、少し補足してみます。上に出てきた「多くの経験的所与のよせあつめ」(experimentorum multorum coacervatio)はトマソ・カンパネルラという16世紀の哲学者からの引用です。カッシーラーの『ルネサンス哲学における個と宇宙』の中に同じ語を見つけることができます。

「自然」を体系的に構築していくためには、経験を構成している要素を篩にかけ、それら個々の要素を価値に従って評価していかねばならないが、経験そのものを単なる集合体とみなし、カンパネルラとともに、それを単に「多くの実験の累積」(experimentorum multorum <coacervatio>)と定義するとなると、経験の構成要素の価値評価は、いかなる形でも不可能になるのである。このようなことは、他の側面から経験の基本要素の分離がなされ、経験それ自体において内的な「危機」(Krisis)が生じて後に、初めて可能になるであろう。このように「必然的なもの」を「偶然的なもの」から、法則的なものを空想的=恣意的なものから分離することに成功するのは、自然哲学の経験主義と感覚主義ではなく、数学の知性主義である。

『ルネサンス哲学における個と宇宙』、p.230

文脈はルネサンス期の自然観に関するものなので異なりますが、経験主義・感覚主義と、知性主義が対置されていますので、基本的な発想は同じであるように見えます。思惟(悟性、知性、理性)にどれほどの役割を担わせるかということが問題になっており、カッシーラーは明確に知性主義としての立場です。つまり、思惟は単に感覚(所与)を並べるだけではなく、何らかの固有な形式によって所与を解釈して経験を作るということです。カッシーラーの立場はカントを受け継いだものでしょう。

 「再編成」に関して、相対性理論へとつながる幾つかの事実を見てみましょう。マイケルソンの実験では絶対静止エーテルが存在しないという結果が得られた一方、フィゾーの実験はその存在を立証するものでした。絶対静止エーテルという概念はマクスウェルの電磁気学理論の帰結である光速度の不変性を説明するために必要とされました。マクスウェルの理論はニュートン力学の座標変換と相容れないものだったため、マクスウェルの方程式は絶対静止エーテルに対して静止した座標系でのみ厳密に成り立つものと考えられました。一方では絶対静止エーテルについての矛盾した実験結果があり、他方では古典力学の理論と電磁気学の理論との相対性に関する不一致があり、物理学者に困難を突き付けたのでした。こうして、「プラトンのいう思惟にとって経験が実り豊かになる条件」が満たされました。
 アインシュタインのとった決定的な一歩は、この問題を要請へと変えたことでした。つまり、光速度の不変性と相対的な座標変換に対する理論の不変性、その双方を要請し、その要請を満たす理論が作り上げられるべきだと考えたのでした。そしてこの要請を満たす座標変換としてローレンツの変換公式が採用されました。ガリレイの変換はこの特殊な場合として包括されました。これは矛盾を表面的に解決するだけのものではありませんでした。

・・・力学の相対性原理と電気力学の相対性原理の間にあったあの当初の矛盾は、それらの間の前にもまして完全で奥深い統一へと到る途を開示した。そしてこの結果は、経験をいくら積み重ねても、新しい実験をいくら繰り返しても、それだけでは決して得られないで、物理学の基本的概念体系の批判的再編成にもとづいて得られたのである。

p.47

2.統一という要求

 歴史を振り返れば、科学におけるいわゆる「コペルニクス的転回」、自然理論の概念的転換を見てとることができ、相対性理論の誕生もそのひとつの、顕著なケースとして考えることができます。機械論的世界観は光速度をめぐる実験的矛盾と、相対性をめぐる理論的矛盾によって危機に陥りました。この危機というのは統一の危機です。統一とは、ポアンカレが科学の真の目標として提唱した概念で、経験を体系的に基礎づける理論体系を構成するために必要な、最小限の仮説とは何かということを問うことです。この統一が危機に陥ったのです。
 アインシュタインによって行われたのはまさにこの統一です。分断されていた電磁気学理論と力学理論を統一したのです。機械論的世界観で中心に置かれた対象の大きさ・位置、時刻の同一性、すなわち絶対空間・絶対時間が統一の過程で捨てられました。それに代わって、自然法則の形式の不変性が中心に置かれました。この形式の不変性は一般相対性理論に至っていっそう高いレベルで成り立つものになりました。特殊相対論では慣性系のみで成り立っていたこの不変性が、一般相対論において任意の座標系へと拡張されたのです。
 ローレンツの解釈が退けられた理由もこの統一という観点から理解できます。ローレンツは、エーテルには物体に収縮を起こす作用があるとしました。この収縮仮説によってマイケルソンの実験とフィゾーの実験との矛盾は解消されました。ところがこの作用によってエーテルは観測不可能なものであると結論されました。アインシュタインは、現象の物理的説明は観測可能な要素によってのみなされるべきだと強調しました。この観測可能性の原理に、因果律を付け加えることで、彼は一般相対論へと到ったのです。ローレンツの解釈とアインシュタインの解釈どちらを選ぶかという価値判断は、認識論的なものです。というのも、どちらの理論も経験を矛盾なく説明することには成功しており、二つの解釈の違いを実験的に検証することはできなかったからです。アインシュタインにローレンツの等価な理論を乗り越えさせ、一般相対性理論まで至らせたのは、より深い統一という要求でした。

3.2つの原理

 特殊相対性理論において、光速度不変原理、(慣性系の)等価原理が基礎となったことを述べました。経験的な観点から考えれば、この2つの原理は同等な権利を持っていました。しかし、方法上の観点からすれば、この2つの原理は異なります。というのも、前者は物理定数についての実験的な事実に関するもの、後者は理論の<形式>に関するものだからです。つまり後者の原理は自然研究の普遍的格率というべきものです。この格率は、一般相対性理論において光速度不変原理の上位におかれます。

この「質料的」な原理と「形式的」な原理の両者は、特殊相対論の形成においては共存している。この両者が区別され、普遍的な基本命題が特殊的なものの<上位>に、「形式的」なものが「質料的」なものの<上位>に置かれたのは――純粋に認識論上の見地からすれば、一般相対性理論によって踏み出された本質的な一歩である。

p54

 こうして、特殊相対論をその近似とする、「より包括的な理論」として一般相対論が生まれたのです。特殊相対論において絶対の基準とされた光速度は、一般相対論において新しい計量単位を与えられ、理論に組み込まれます。

真に不変なものは何らかの事物のたぐいではない。われわれがある方程式の中の物理学や数学の象徴言語に確保している、ある確かな基本的諸関係と機能的〔関数的〕依存性のみが真に不変的なのである。

p.56

4.相対性理論における客観性、個別から全体へ

 日常的な感覚からすれば、事物概念を捨て、関係性へと解体することは受け入れがたい。この否定的な側面から、相対性理論は自然研究に主観的任意性を持ち込んだというような批判が横行していることは驚くべきことです。むしろその真逆なのです。

われわれが自然系と呼ぶものは、最初ある一つの基準体から得られた測定〔結果〕を他の基準体のものと結びつけて、・・・それらを観念的に単一の結果にまとめげたときにはじめて形成される。・・・これはまさに客観性の定義以外の何物でもない・・・。

p.58

そして、われわれの知識はこれ以上のことを達成しえず、要求もしえないのです。われわれは何らかの基準系から出発するしかなく、自然法則が測定の際に偶然選ばれた基準系にはよらないということを要求するしかありません。個別の測定はカントのいう「綜合的統一」を与えるものではありません。ニュートン力学から特殊相対論へ、特殊相対論から一般相対論へという過程を振り返れば、われわれがどのようにして個別性から全体へと至ることができたのかが分かります。そして、

相対性理論によって徹底化されたある種の値の不変性と一義性という普遍的思想は、自然理論の論理的・認識論的基礎に属することであるから、<あらゆる>自然理論において何らかの形式でくり返しあらわれるべきものであるということを示しうる。

p.64

例えば、エネルギーは経路によらないという一連の個別的観測から、エネルギー保存則という普遍的法則へと至る場合です。この不変性と一義性によって、エネルギーは体系における計量としての地位を得るのです。そして、計量としての体系での関係性により、エネルギーは物理学における対象概念として客観性を得ます。
 物理学的な対象認識とは客観的関係性の認識以外にはありえず、個別性から全体へという進歩は物理学的客観性を深めるものです。この関係性を批判することで、相対性理論は素朴な世界観からみずからを解放し、自然科学研究における方法論を一歩押し進めたのです。

❕ 第2章まとめ

  • 思惟は単に知覚のよせあつめを並べて経験を作るだけではなく、固有の形式を以て経験を構成する。このとき、互いに矛盾する知覚は思惟を喚起し、経験の統一への要求が生まれる。

  • 古典力学と電磁気学へと突き付けられたいくつかの困難により、思惟の統一への要求が生まれた。物理学の基本的概念の批判的再編成により、相対性理論が生まれた。

  • この統一は個別から全体へと至る思惟の働きであり、物理学における客観性を深め、自然科学における方法論を進歩させた。

出典

E・カッシーラー『アインシュタインの相対性理論』、山本義孝訳、河出書房新社(1981).
E. Cassirer, "Zur Einstein'shen Relativitatstheorie; Erkenntnistheoretische Betrachtungen," Bruno Cassirer Verlag, (1921).

E・カッシーラー『ルネサンス哲学における個と宇宙』、末吉孝州訳、太陽出版(1999).
E. Cassirer, "Individuum und Kosmos in der Philosophie der Renaissance," Wissenchaftliche Buchgesellschaft, (1927).


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