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カッシーラー『アインシュタインの相対性理論』要約 / 第3章 哲学的真理概念と相対性理論

注意1:概ね本文の流れに沿って要約しています。筆者自身の意見や解釈を述べたり、本文の流れから外れる際は「❕」で明記します。それ以外の部分は、日本語的に筆者の意見に読めるようなところも、基本的には全て本文に依拠しています。というのもいちいち「カッシーラーによれば~」とか「~とカッシーラーは述べている」と書いていると煩雑だからです。とはいえ、要約している以上は筆者の言葉も多分に入り込んでしまうことはご了承ください。
注意2:便宜上、節に分けて見出しをつけています。元の本には章による区切りのみでこれらの見出しはありません。


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1.古代懐疑論の克服と近代懐疑論の論点

 「相対性」は古代の懐疑論においては認識に嵌められる原理的制限――足かせでした。絶対的な真理をもとめる古代の認識論において、客観的な対象はわれわれの主観から分離されなければなりませんでした。しかし、相対性によってそれが不可能になるのです。個別の事象の絶対性を把握しようとしても、それが単なる関係へと解体されてしまいます。事物を指し示す知覚は常に主観的な感覚器官を通して得られ、主観的な知覚と客観的な事物という分離は不可能です。われわれが知ることができるのは、主観的な知覚と客観的な事物との関係だけです。
 この懐疑論にこめられているのは、絶対的な真理を得たいというひそかな望みです。近代科学はこの望み――事物(とその性質)の絶対性を意味のない独断論的なものとし、断念することによって、古代からの懐疑論を克服します。しかし、このことは客観性の断念を意味するわけではありません。なぜなら、近代の自然認識において、真に客観的なものとは事物ではなく法則だからです。対象はつねに相互の関係のなかで与えられ、事物とその性質はその関係性の中で定義されるのです。「事物認識そのものを法則認識として理解し、前者を後者でもって基礎づけ」るのです(p.73)。
 こうして懐疑論の論点が移動します。すなわち、近代の懐疑論の論点は、われわれの法則認識の真理性と普遍性が保証されうるのか、という点にあります。われわれは個別の事象から全体へという方向で法則を認識します。近代の懐疑論が疑いを差しはさむのはここです。

われわれはただ単に、ここでのいまの、つまり空間的・時間的に孤立した規定のみを捉えるのであって――いかにしてわれわれがこの個別のものの直観とその個別性から全体の客観的形式の直観へ移りゆけるのかは、わからない・・・真に客観的で必然的な法則は、ただ個別のものを並べ上げてゆくことによっては、たとえそれがいかに数多くのものであっても、到達できないし導き出されないというのである。これはヒュームの懐疑論であって、古代のものとは本来的な区別がある。

p.74

こうして、近代の懐疑論においては因果性――諸現象の関係性は単なる幻想となり、感覚的所与だけが知識の窮極的要素として残ることになります。そのような所与において、形式と統合という思惟の働きが否定されるのです。

❕ ここで、第2章のはじめ、経験における思惟の役割についての議論を思い出してみます。そこでは感覚論的な立場と観念論的(批判主義的・知性主義的)な立場が対置されていました。感覚論的な立場では、経験は個別の所与の単なるよせあつめであり、思惟の役割とは所与を並べるだけです。並べるとは時間・空間的な順序を認識するということだと思います。一方、観念論では思惟がより積極的な役割を持ちます。思惟は独自な形式をもち、その形式によって所与から経験を構成(という言葉が適切かわかりませんが)します。この観念論の立場というのは言うまでもなくカッシーラーがカントから受け継いだものです。カッシーラーにとってはこのような思惟の働きこそが重要な意味をもっている、というのは本文中で再三繰り返されているので読み取れます。
 ところで、哲学の教科書などにはイギリス経験論と大陸合理論という対立軸がよく見受けられます。ヒュームが経験論の代表的な論客だということは教科書的な知識としてありますが、その理論の詳細などは筆者の不勉強のためここでは触れられません(もう少しまとまった知識がついたら追記したいと思います)。ただ、上で述べられている近代懐疑論の要点がいわゆる帰納の問題だということは明確だと思います。

2.近代懐疑論の独断的な前提

 古代懐疑論は、それが暗に前提としていた絶対的事物概念を断念することによって乗り越えられました。これと同じことが近代懐疑論にも適用できます。つまり、近代懐疑論の独断的な前提を暴くのです。この前提は実は懐疑論の感覚的(経験的)所与の概念の中に見いだされます。懐疑論において、感覚的所与だけが知識の窮極的要素とされます。この感覚的所与の概念に絶対性が付与されているのです。

古代の懐疑論は暗黙のうちに絶対的事物という前提に完全に依拠していたのだが、ヒュームのそれは絶対的感覚という仮定に支えられている。一方の場合での実体化は「外的」存在に関し、他方の場合では「内的」存在に関するものであるが、その一般的形式は同じである。そして、この実体化によってはじめて、認識の相対性という思想に懐疑論的なものが混入したのである。

p.76

この絶対性に疑問を向け、首尾一貫して考えることが求められます。二つの懐疑はどちらも思想が首尾一貫していないところから来るのです。

思惟が現象を考慮しつつも、それに固有の法則的形式、その論理学的公理の要求にしたがって、純粋な関係の体系としての真理を発展させることに満足するかぎりでは、思惟はその圏内で充分確かに活動する。

p.76

❕ これは少し唐突にも思われますし、この部分は帰納論理という大きな問題を扱っているにしては奇妙なほど説明が少ないです(第3章自体12ページしかありません)。2つの懐疑論にはそれぞれ独断的な前提が含まれているという主張を認めたとしても、それらの「一般的な形式は同じである」とはどういうことでしょう。次節の内容から類推するに、対象概念の上に真理概念が乗っかる関係のことを言っているのだと思いますが、やや不明瞭です。また、「思惟はその圏内で充分確かに活動する」と書かれていますが、何が根拠なのか不明です。それともカッシーラーにとっては紙面を割く必要もないほど明白なことだったのでしょうか。ここは検討の余地があると思いますので、またあとから戻ってきたいと思います。

3.観念論的な真理概念と相対性理論

 ここまでで述べた(古代の)独断論的真理概念と(ヒュームの)懐疑論的真理概念とに、(カントの)観念論的真理概念を対置させることができます。前者では外的事物、あるいは内的感覚所与に実体性を付します。そのような「超験的」対象をもって絶対的な真理概念を基礎づけるという点で、認識の真理性を像表現として考えています。
 観念論的真理概念はこの逆です。カントはライプニッツの真理概念を受け、これをより包括的に発展させました。ライプニッツの真理概念はいまだ単子論的な世界観の中でのものですが、認識の真理性は像表現ではなく関数表現として与えられるのです。カントの理論では、この関数的な真理概念によって対象概念が規定されます。
 前章でも述べたように、相対性理論は独断論的な事物的対象概念を断念し、関数的真理概念へと前進したことによって生まれました。懐疑論で否定的な意味を持っていた相対性が、ここでは肯定的な意味を持ちます。個別性から全体性へと至る統一により、より高い客観性が得られるのです。

批判論の基本的見解によれば、対象はわれわれの感覚表象が多少なりともその写像として対応し相当する原像では決してなくて――「それに関して表象が綜合的統一を有する概念」なのである。この概念を相対性理論はもはやなんらかの像の形式においてではなく、物理学の理論、つまり任意の変換に関して共変な方程式や方程式の体系で規定する。・・・物理学の対象は「現象界の対象」として規定されるが、しかし<この>現象界にはもはや主観的任意性と主観的偶然性はない。というのも、科学としての物理学が依拠している認識形式と認識条件の観念性が、同時に、「事実」としての客観的に妥当であると言明されるすべてのものの経験的実在性をも保証し基礎づけるのである。

p.80

❕ 第3章 まとめ

  • 認識は相対的であり、主観と客観を分離することはできない。

  • 古代懐疑論は外的事物の絶対性を、近代懐疑論は内的所与の絶対性を暗に対象概念として仮定し、そのうえで真理概念を基礎づけようとする。この絶対性の黙認によって、認識の相対性が否定的な意味を持ち、懐疑に陥る。

  • 観念論において真理概念は像表現ではなく、関数表現として与えられる。この真理概念のうえに対象概念が基礎づけられる。

  • 関数的な真理概念は相対性理論によって押し進められ、物理学における客観性を高めた。




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