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カッシーラー『アインシュタインの相対性理論』要約 / 第1章 計量概念と事物概念

注意1:以下はカッシーラー著『アインシュタインの相対性理論』(山本訳、河出書房新社)の要約です。概ね本文の流れに沿っています。筆者(このnoteの)の意見や解釈を述べたり、本文の流れから外れる際は「❕」で明記します。それ以外の部分は、日本語的に筆者の意見に読めるようなところも、基本的には全て本文に依拠しています。というのもいちいち「カッシーラーによれば~」とか「~とカッシーラーは述べている」と書いていると煩雑だからです。とはいえ、要約している以上は筆者の言葉も多分に入り込んでしまうことはご了承ください。
注意2:便宜上、節に分けて見出しをつけています。元の本には章による区切りのみでこれらの見出しはありません。


1.物理学と認識論

 第一章はカントの引用から始まります。ここでカントが言っているのは数学と哲学の関係、そして形而上学批判です。これまでの形而上学は明晰さを欠いていた。数学の方法を用いることで、形而上学的な(時間と空間に関する)考察の助けになるだろう。
 カントのこの見解はオイラーの論文(『時間と空間に関する省察』)に影響を受けており、オイラーはニュートン力学の体系を受けています。つまり、オイラーは絶対空間・絶対時間という概念を「真正の物理学的実在」とし、これを否定することはできないという立場を取ります。
 20世紀になって、このニュートン力学は完全な体系ではないことが分かりました。ニュートン、オイラー、カントという思想の流れは、どうなってしまうのか。

ニュートンとオイラーが物理学的認識を充分確実に掌握しているとみなした諸法則――つまり、物体的世界や物質やその運動の<概念>、端的にいって自然そのものがその中で定義されていると彼らが信じた諸法則とは、今日のわれわれにとっては、せいぜいのところある領域、存在のある限られた部分を支配することができるにすぎない抽象、それもその限られた部分を理論的に第一近似として記述する抽象でしかないことが明らかになっている。

p.13

 ここで少し話が先取りされ、相対性理論がもつ意義に言及されます。

一般相対性理論は、物理的な考察と認識論上の考察のその双方から同じように決定的に動機づけられている、ある思想的な営為の窮極の結果ということにつきているのだ。

p.13

❕ これはやや唐突なので、ここまでの話の流れを補足する必要があります。冒頭でのカントの引用は、哲学の思索に数学的な方法論を持ち込むことについて述べていました。カントに影響を与えたオイラーの論文も、ニュートン力学を下敷きとした時空間論でした。オイラーの場合も、カントの場合も、物理の発展が哲学、認識論に影響を与えている例です。物理と認識論は切っても切り離せないものという認識です。この二つの観点が互いに影響しあうことによって「ある思想的な営為」となります。しかし、この「営為」がどのようなものであるかはここではまだはっきりしません。むしろ、そこが本書全体の大きな論点です。読んでいくうちに、カッシーラーが見ている「営為」がだんだんと分かっていきます。これは恐らく『シンボル形式』までつながっていくカッシーラーの発想の中心的な部分です。

 この物理学と認識論という二つの観点の「共同作業」は物理学史上でも大きな役割を果たしてきたことが分かります。ガリレオ、ケプラー、ニュートン、ヘルツ、ヘルムホルツらの著作を見れば、彼らの認識論的な問題設定が見て取れます。特殊相対性理論の誕生、一般相対性理論への発展についても同様です。アインシュタインは最初から認識論の領域に足を踏み入れていました。そして、相対性理論から得られる諸々の帰結は、認識論へも影響を与えます。

力学の古典的体系と対照的に、相対性理論の提起した新しい科学上の問題は、批判哲学の再吟味を促している。もしもカントが・・・ニュートンの自然科学を哲学的に体系化しようとしたと欲したのであるならば、――彼の体系は必然的にニュートンの物理学と運命を共にし、また、ニュートン物理学が蒙るどのような変化も批判哲学の基本的な学説の成り立ちに直接反作用を及ぼさなければならないのではないだろうか? それとも、先験的感性論の学説の基礎は十分広くまた力強くもあるので、ニュートン力学という建築物にとどまらず現代物理学の構造をも支え切れるのだろうか。

pp.15-16

 カントは哲学に対して「科学の不断に進歩する途」を開くことを要請しました。カントはいずれ自分の哲学体系が乗り越えられるということを見越していた。ならば、それは今なのだろうか。相対性理論によってそれがなされるのだろうか。これが本書の大きな問題提起です。

❕ 「力学の古典的体系とは対照的に」と言っています。ニュートン、そしてオイラーも絶対時間・絶対空間というものを前提としていたことはすでに触れました。絶対時間・絶対空間は否定しようのない独断論的なものでした。カントの批判哲学はニュートンの力学を下敷きにしています。一方、相対性理論はこのような独断論的な考えを捨てたところに成り立っているので、批判哲学の再吟味を促しているということです。ただしこのことが、批判哲学が独断論的であるということを意味するのかというと、カッシーラーはそうは考えていません。だからこそカッシーラーは「科学の不断に進歩する途」と言っているのでしょう。批判哲学の再吟味は主に第五章で行われます。

2.素朴な対象と抽象的な思考シンボル

・・・アインシュタインが空間と時間から「物理学的客観性〔対象性〕の最後の残滓」を取り除いたことが彼のなしとげた本質的結果であると語るとき、――この物理学者の解答には、認識論哲学者にとってはまさしく固有の根本問題が表現されている。

p.17

 認識論は物理学に現れる概念について、それが一体何なのかいう問いを向けます。物理学における「対象」とは何か、これが認識論哲学者にとっての根本問題です。また、物理学に限らず、様々な科学における「対象」ははじめから自明な定義を持っているわけではありません。これらは「何らかの観点によってはじめて規定」されます。観点が変われば対象も変わります。つまり、科学の個別分野によって、それぞれ異なる対象の概念があります。

・・・個別の分野の認識内容は、その認識が生み出された固有の判断形式や設問形式によって決められるのである。この形式においてはじめて、それによって、それぞれの科学が他と区別されるある種の特殊な領域公理の境界が設定される。

p.18

数学での対象概念と、力学での対象概念は異なります。科学はそのような対象をひとまず受け入れて先に進むでしょうが、認識論はまさにその対象を分析しなければなりません。これらの対象概念を定めている「論理的条件」を分析するのが認識論の仕事です。

 個別科学のなかでも物理学に関して言えば、物理学的な対象概念――力、質量、圧力、温度、エーテル、原子、電気的ポテンシャル等々――は、素朴な世界観におけるそれ――単に感覚が捉えるもの――とは異なります。つまり、物理学の対象概念は、

・・・明らかに、単純な事物や間隔内容の複製ではなくして、単に感覚が捉えるものから、ある測定可能なものに、そしてそれによって「物理学の対象」に、言い換えれば、物理学に<とっての>対象に変換することを意図した、理論的な措定と構成なのである。

p.19

 プランクは「人が測定することが可能なすべての物は存在する」という形で物理的な客観性を定式化しました。ここでは測定可能性が基本的な条件となっています。ところで、この条件は何ら絶対的に自明な原理ではありません。そうではなく、このような要請をするということです。測定は何らかの理論体系に基づいて行われ、その結果、感覚的なものが物理的な体系に持ち込まれ、対象として成立することになります。
 物理学者にとっての実在とは、素朴な実在ではありません。何らかの体系によって「媒介されたもの」としてあります。素朴実在論者にとって現実性とは感覚に与えられた単純な事物であり、彼にとっての世界は事物とその性質の総体です。一方、物理学者にとっての現実性はある体系内での関数的な関係によって表される計量であり、彼にとっての世界は抽象的な思考シンボルの総体です。

❕ 素朴実在論に関して補足しておきます。素朴な世界観と言ったりもします。これは我々が見たままの世界と理解できるでしょう。例えば、目の前に林檎があるなら、林檎はそこにあります。それは疑いのない実在の事物であり、現実性を持つ対象です。これは我々の日常感覚と合致するところです。一方、物理では力やエネルギーといった概念がでてきます。これらの概念はまずもって目に見えない抽象的なものです。目の前にある林檎が実在するというのと、エネルギーが実在するというのとではちょっと話が変わってきます。このような物理学的な概念に素朴な事物としての実在性を付与しようとすると問題が出てくるということを次節で見ていきます。
❕ 計量概念と事物概念という重要な概念が出てきます。ひとまずは対置構造を頭に入れておくとよいでしょう。素朴実在論的な事物(とその性質)の総体としての世界と対置されるものとして、抽象的な思考シンボルの総体としての世界がある。素朴な事物という概念と、関数的な対応をもつ計量という概念が対置されています。
❕ 2節で話がややこしくなる上、抽象的な思考シンボルという重要な概念が出てくるので少し丁寧にまとめました。しかし、この「シンボル」というものについて、ここではそれほど詳しく説明されません。話を先取りした問題提起の節と言えるでしょう。ですので、多少わからなくても読み進めていく必要があります。

3.計量概念と事物概念の混同

 歴史を振り返ると、新しい計量概念を事物概念へすり替えてしまうということが頻繁に起こることが分かります。計量概念は体系内の関数的な対応の中に組み込まれることが本質的です。一方、われわれは抽象的な計量概念を現実の事物と対応させようとする癖があります。これまでの科学は、そのようにして絶対的な現実性を持ったものを扱わなければならないという態度を取ってきました。エネルギーやエーテルといった概念がそうした扱いを受けてきたものの典型です。

すでにこの二つの例からでさえも、認識論上の考察における認識の「主観」と「客観」の間を媒介し往復する運動とまったく平行したある精神的運動が、物理学の歴史全体を貫いて存在することを、ありありと見てとることができる。

p.23

ここからは具体的な事例を見ていきましょう。

原子概念

 歴史的に、原子の概念は存在の絶対最小限度として考えられてきました。この概念は実際にそのような単位が経験的に見いだされる前からあった。つまり、われわれの思惟がそのような単位を求めたのです。ところが、この単位の概念をひとつの事物へと帰着させることは難題でした。というのも、この事物としての単位は観点によって変化するように見えました。電磁現象においては電子が最小の単位として考え出されました。このような困難はしかし、単位を存在の絶対最小限度ではなく、計量の相対的最小限度として捉えることで乗り越えられます。計量はとある体系内での関数的対応関係を表現します。異なる体系では異なる形で現れてきます。これらを単一の事物、<像>へと帰着させようとするのが矛盾のもとなのです。

位置・運動・慣性

 ガリレイは位置の絶対的な実在を捨てて相対的な力学を作り、ケプラーは「位置の規定というものは精神の作用である」としました。古代から続く世界観の基盤となってきた絶対的な実在としての位置は単なる主観的な規定――幻想へと解消された。こうして位置そのものは客観的な実在としての意味を持たなくなり、代わりに、実在性は位置の変化――運動へと移し替えられ、相対的な運動が(運動の方程式として)一義的に規定された。しかし、彼らはそれでもなお運動を実在として考えました。運動は物体に内在する性質であり、現実世界はこのような運動の現実性によって定義される――事物的な実在の概念として運動をとらえたのです。事物的な実在性は慣性にも与えられました。その結果慣性の法則は「認識論上の堂々めぐり」へ陥ることになりました。この困難を解決するには、やはり、位置・運動・慣性といった概念を事物的なものとしてではなく、計量として捉えることが必要でした。プランクの測定可能性という実在の定義を用いれば、力学的な測定を可能にする体系――力学という特殊な体系を定める「領域公理」としてこれらの概念を捉える必要があったのです。

4.世界像の更新と認識論の役割

 一般に、われわれが具体的な量を測定する以前に、測定そのものの立脚する形式が定められている必要があります。この立脚点をどう選ぶかということは、単に経験的事実のみによって決まるのではなく、思惟の行為です。この意味で、測定とは観念的なものです。測定をするということは、本来的には思惟による原理と公準の選択だということです。思惟はより単純な、統一された完備な体系を選び取ります。この選択、原理・公準の変更が起きる時、われわれは新しい世界像に直面します。しかし、それは単に古い世界像を捨て去るということではありません。以前の世界像はより包括的で普遍的な新しい世界像へと組み込まれます。こうして思惟は探求を続けます。思惟が見出す世界像が条件づけられた相対的なものでしかないということが、この不断の探求を保証します。これはカントが示した進歩の途に他なりません。

新しい物理学の理論の認識論上の説明と評価は、そのまわりに諸現象、すなわち現実的かつ可能的な観測の全体が回転する観念の中心点と転換点とをつねに見出そうと努めなければならないであろう。

pp.34-35

❕ 第1章のまとめ

  • 科学と認識論は互いに影響を与えながら「思想的な営為」となり、相対性理論の誕生へと至った。これはカントの哲学へどう影響するだろうか?

  • 個別の科学分野はそれぞれの領域公理によって定まる抽象的な思考シンボルの総体としての世界を持つ。素朴実在論的な事物概念に対して、体系内での関数的関係を表現する計量概念がある。

  • 歴史的に、計量概念を事物概念と混同することに起因した様々な困難が見られる。これは主観と客観との間の、人間の精神的運動である。

  • 領域公理の選択・変更の際に世界像が更新され、古い世界像を包括する。この転換点を見出すのが認識論の役割である。


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