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「当たり前の生活」を追うほどに増す違和感

 児童養護施設の検索結果をよりグラデーション豊かにしよう、をテーマに考えを綴っています。ゆきちかさんです。

 前回は、一般家庭の「普通」よりも、施設の暮らしを構成する子どもと職員の一人一人が持つ「普通」を突き合わせた、施設で暮らす人同士の「特別で、新しい普通」を作った方が良くない?という話をしました。

 こんな考えをしていますので、児童養護施設に暮らす子どもについて語るときによく目にする「当たり前の生活」という言葉にも引っかかりを感じています。今回はこの引っかかりの言語化を頑張ります。

言葉が先を行く「当たり前の生活」

 児童養護施設に入所するような「特別な事情」を抱える子どもでも、そうではない子どもと同じように、当たり前の生活ができることが大切である。それは誰しもが持つ権利であって、妨げられてはならない。…という、言葉が使われる文脈はわかっているつもりですが、次のような違和感を感じる言葉でもあるのです。

 「当たり前の生活」が「普通」ではない状況にある人に対して「当たり前の生活」を勧めることは、少し測り間違えると「あなたの生きる環境は普通じゃない」=「普通じゃない環境で生きるあなた」という相手の持つ特別な事情をより際立たせる暗黙のメッセージを放ってしまうのではないか?
 特別な事情を差し引いた分のその人らしさを陰に追いやってしまうのではないか?
 とても移ろいやすい性質を持つはずの「普通」を絶対視して「普通になりたい」と追い求め続ける人を悪戯に増やしてしまうのではないか…?

 この辺の違和感、私は不登校「問題」という体験を通してちょっぴり敏感になっていまして、少し測り間違えた言葉を聞くとすぐセンサーが反応します。
 全てとは言いませんが、語気が強めの「当たり前の生活」推奨言説には、問題を発見し、正義感と責任感を燃やし、問題解決に取り組む自分を振る舞い、空高く舞い上がって視線が合わなくなる支援者像、というものがセットになっているように感じるのです(これには自戒を含む)。

 「当たり前の生活」を強く訴える言説が、人によっては全然優しさとして機能しない現実があるかもしれない。何かに焚き付けられたい衝動を持つ人に好かれやすくて、切り取りハラスメントみたいな目に遭いやすい言葉として注意深く使わないといけない、そんな言葉だと思うのです。

「当たり前の生活」の前後を読もう

 さて、いろいろツッコミを入れてはみたのですが、このままでは最初に「当たり前の生活」を言い始めた人の思いに対する切り取りハラスメントになってしまうのではと思い始めました。言葉の前後を読んでいきましょう。

 例えば空気を吸うことくらい、本当に誰でも、何の条件もなしに手に入れられそうな、それくらい些細なことが手に入れられない。
 きっと、元々は、そのような状態にある子どもの姿を目の当たりにして、居ても立っても居られなくなってしまうというあの感覚をどうにか言葉に落とし込んだものだと思います。目の当たりにして、その存在が自身の中に立ち現れ、焼き付いてしまった、あの切実な感覚。その状態で思いを巡らせたのではないか、と過程を想像します。

 そこまで圧倒的に手に入らない「当たり前」とは何なのでしょうか。私の中の答えはこれ。

 その子ども自身や、子どもが発すること全てが、存在しているものとして一様に認められることが当たり前の生活。

  放った欲求が叶うかどうかの話ではなく、欲求が存在するものとして扱われる。何ならとても丁寧に扱われる。それが当たり前に叶っている生活。子どもによっては、空気を吸うのと同じように、何を考えることもなくこれが叶います。

 存在が許され、より丁寧に扱われるほど、目に見える付属品も増えていきやすいわけですが、付属品は所詮付属品で、本質的にこれを叶えるのは眼差しや応答といった形らしい形がないものたちです。

 児童養護施設は、このような存在すること自体が覚束ない子どもたちが多く集まります。力のない子どもたちではなく、それぞれ自分の存在を立ち上げるための断片を持っています。言葉を交わすことに限らず、その可能性を伝えるチャンネルを持っていて、コミュニケーションの道筋があります。
 しかし、生活をこれから形作ろうというとき、何を持って「当たり前の生活」とするか、という話は容易ではありません。「このような『当たり前の生活』をしたい!」と説明しようとしても、目に見えるものほど言葉になりやすく、本質的な眼差しや応答は陰に置かれやすく、本質に辿り着かないままに付属品の集合体を語るだけに留まってしまいやすいのです。

 だからこそ、と言えばいいのかと思いますが、コミュニケーションの余地がずっと続くこと、「今日はここまで話せたけど、続きはまた明日」がとにかくずっと繰り返されることが望ましいと思います。

 そもそも、存在が十分に満たされた世界に生きることができている人はどのくらいいるのかわかりません。本質的な部分を言葉に落とし込もう、形作ろう、というのは誰であっても難易度の高い作業なのではないでしょうか。どこで誰とこのコミュニケーションをするか、というのも千差万別です。家庭ならばコミュニケーションと「また明日」が確実に保証される、という世界でもないと思いますし、家庭でも施設でもない所にそれらを見出すことで人生を紡いでいる人もたくさんいると思います。
 児童養護施設という窓を通じて見る「当たり前の生活」が問うているのは、実は施設の中の暮らしの話じゃないのかもしれません。
(…これ盛大な論点ずらし感あるな笑。施設もこのまま「当たり前の生活」を問い続けるのでご安心を!)

 さて、次回は何を話せば良いか…。形なき存在を立ち上げる技術としての眼差しや応答、みたいなところを掘り下げてみましょうか!自分が良く存在し、子どもの存在も立ち上げるお仕事、つまりは存在のプロ、というのが施設職員の専門性らしいぞ、というお話。次回もどうぞお楽しみに?

ゆきちかさん

自分の好きな施設に訪問して回りたいと思います! もしサポートがあれば移動費と施設へのお土産代に費やします!