見出し画像

施設は何の「普通」と比べてものを考えたらいいのか

 児童養護施設の検索結果をよりグラデーション豊かにしよう、をテーマに考えを綴っています。ゆきちかさんです。

 前回は「普通」と「特別」の関係性について書きました。じわじわと変わっていって、変化のためのコミュニケーションが起こる転換点がやってくる。近くにはなかった「特別」なことがより身近な「普通」になり、それまでの「普通」は徐々に居場所を失って「特別」になっていく。地続きで、入れ替わり可能で、固定化できない位相変化。児童養護施設という窓から見ると、結構面白いのではないかと思っています。(感情労働で忙しい施設職員をやっていくためにバイアスをかけた見方をしているのかもしれない、というのは置いといてw)

施設の暮らしの「普通」ーその成り立ち

 児童養護施設の中には、施設に入所している子どもと、その子どもたちの生活支援を行う職員がいます。
 子どもたちを見てみると、出身家庭で身につけた、その家庭における「普通」を持っている子どももいれば、乳幼児期から施設で暮らしてきたために、施設の暮らしこそ「普通」だ、という感覚を持っている子どももいます。
 出身家庭の「普通」がある子どもについても多様性があります。社会一般的に「普通」と見なされるような家庭生活を経験していた子どももいれば、暴力が行き交う環境下で暮らしていたために、支配ー服従の人間関係こそ「普通」だ、と言う子どももいます。子ども自身や家族が何らかの障害や精神疾患などの症状を抱える「普通」を生きている子どももいます。
 職員の方を見てみるとどうでしょう。生活支援の主役であるケアワーカー(保育士や児童指導員)はそれぞれの専門分野の教育を受けてきているわけですが、もう少し奥深く個々人の背景に注目すれば、その人の出身家庭や、その人の生きてきた人生の中で生み出された「普通」が活きていて、これまた一括りには語れない多様さを持っています。

 このような構成メンバーが作る施設の暮らし。その暮らしの「普通」があるとして、それは施設の外から見ても自然な「普通」になるかと言うと、「いやいや無理無理!個性的にならざるを得ないでしょ!!」が私の思い。
 法律に則った公的機関としての趣がある以上、外から見た時の自然な「普通」が求められてしかるべきなのですが、世間一般の人が「こうあってほしい」と思う平均値的な「普通」というよりは、集まった人たちの中で折り合いを作り、中央値的な「普通」を生み出すのが「普通」なのだと思います。
 そもそも一般家庭の「普通」も、その家庭を構成するメンバーの個性から成り立つ「たくさんある普通の中の一例」ですし、多分、最初に比べ合う「普通」は施設の外にはないのではないかと思うのです。

施設の外に生きる人のために作る「普通」ではないとしたら

 さて、誰のために作る「普通」なのか?というスタート地点に立つならば①中の人同士で話し合う、②外の世界とどう付き合っていくかを話し合う、という順番になると思います。個人的な理想を言えば、施設の暮らしを作る構成メンバーの一人一人の「普通」を突き合わせて、どこにもない新しい「普通」を作ろうぜ?という話に落ち着けば良いと思います。
 多分、そうして作った新しい「普通」は、外から見たらものすごく「特別」なものになると思います。そこまでいくと「外から見た自然な「普通」」などはもはや関係ないくらい説得力を放つと思うんだけどなあ…。

 まあ、そのスタート地点に立つこと自体が難しくって、日々悩んで話して喧嘩して、の施設暮らしが続いているわけですが…w

 次回は、互いの「普通」をスタート地点到達を阻む「当たり前の生活」という言葉を掘り下げていこうかと思います!個人的にはこの言葉、危なっかしくて苦手なんだよね!という話です。

ゆきちかさん


自分の好きな施設に訪問して回りたいと思います! もしサポートがあれば移動費と施設へのお土産代に費やします!