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反面教師な父の話

前回、尊敬する偉大な母の話を書きました。
しかし私は父のことはずっと好きになれず、苦手でした。厳しいとか怖いとかではありません。

今思えば父は、大人の発達障害だとか精神的な疾患だとかメンタルの病気だとか、多分そんな感じで、現代なら診断や治療や対処法などがあったのかもしれませんが、昔はなかなかそんな理解が世間にも家族にもなく、父は不器用で・淋しく・孤独な人だったなぁと思います。

父が亡くなって8年が経ちますが、思い返しながら書いてみます。


昭和の亭主関白オヤジ

母と父は8つ歳が離れていました。父が年上。
父は生活のすべてにおいて母任せで、家事も育児も親の介護も、ほんとに何もしない・できない人でした。

自分の部屋でゴロゴロ寝ていても、
「お〜い!おい!」と母を呼び寄せて
「そこの窓閉めて」とか「麦茶1杯持ってきて」とか
母を召使いのように扱っていて、私は幼いながらもなんで自分でせぇへんの?と思っていました。

私が小学校低学年のころ、母に子宮筋腫が見つかり手術・入院することになって、初めて数日間家を空けることになった時。
父はどん兵衛のカップ麺をコンロで直接火にかけ、当然、燃えました(爆)!嘘みたいなホントの話。
いやいや、そんな大人、おる?
ポットのお湯の出し方も分からない父。(←昔のポットは捻ってから押し込むタイプだったが、捻ることを知らなかった。)
カップ麺すら食べられず、結局は弁当を買ってきていました。

こういう容器よ?アルミじゃなくて。

もちろん、父は料理も洗濯も掃除も何もできず。
母が退院するまで夜は父が買ってきた弁当。朝は高学年だった姉が米を炊いてくれて、私たちは白米に鰹節やちりめんじゃこ・卵などをかけて食べていました。

お風呂を溜めるのも姉。洗濯して干すのは姉妹で。
父の着替えを出すのも姉でした。父は自分の下着や服がどこの箪笥の引き出しにあるかさえ知らなかった。(お風呂に入っている時に母が出して用意していたので。)

この時、母が居ないときは自分たちでなんとか生きていかなくてはならない、と悟った小学生姉妹なのでした。

大人の発達障害?絶望的な方向音痴

私が小さいころはまだ、家族で車で出かけていました。母は免許を持っていないので、運転するのは父のみ。
昔はカーナビなんぞついておらず、母も地図を読むのが苦手だったので、見知らぬ場所へのお出かけは、それはそれは大変なものでした。

初めて行った遊園地の話。
私たちはジェットコースターなど乗り物を散々満喫して、さあ帰ろうとした時です。
「車をどこに停めたか分からない」と、父。
昔はリモコンキーをピッと押せば車が光って返事をしてくれるような機能は備わっていなかったので、めちゃくちゃ探し回りました(笑)。
母も覚えておらず、娘たちも着いた時のテンションの高さでそんなことは何の記憶にも残っておらず、捜索するのにへとへとになるほど時間を費やしました。。。

大型駐車場、迷う気持ちは分かるけれど。。。

父と母が二人で「買い物に行ってくる」と車で数十分離れた場所にある大型電気店に出かけて行った休日のこと。
何時間も、日が暮れるころまでなかなか帰らなかった両親。
私たちが「なんでこんなに遅かったん?」と聞くと、
「帰り道で〇〇方面と書いてあるところの右左折を間違えてしまい、真逆の方向に行ってしまって修正もできず、すんごい遠くまで行ってしまった。」と母。はぁ。。。
ナビなど無かった時代、大人の迷子は多かったのでしょうか。

母も地図は苦手だし、方向音痴でした。

まだまだ両親の絶望的方向音痴エピソードはありますが、まあこのぐらいで。

病的に特定の食べ物にハマる

父は、煙草は吸ってたけれどお酒は体質的にまったく飲めませんでした。が、夕飯後にお菓子をつまむのが日課で楽しみであり、いったんある物にハマると同じ物を毎日何ヶ月も食べ続けました

おはぎ・たまごボーロ・蕎麦ぼうろ・ポテチ・コーラ・みかんの缶詰・ココナッツサブレ・エースコイン・うぐいすボールー etc…
毎日毎日よくも飽きずに同じ物を食べられるなと思うぐらい、半年ぐらいたつと違う物に変わってたりしますが、必ず何か特定のおやつを食べていました。

昔のお菓子、知ってますか? 今でも買えるのかな。

そりゃあ糖尿病になるわな。
病院嫌いの父は、体調が悪くなっても「健康に自信がない」とか「医者は悪いことしか言わん」と、頑なに病院に行きませんでした。
なので、分かったときには既に重度になっていて、取り返しのつかないところまできていました。脚の指の壊疽、片目ほぼ失明、小脳出血。

糖尿病だけでなく高血圧も、生活習慣病と名のつく全ての病気を併せ持ち、まったく老後の生活を楽しめないまま亡くなりました。

自分の親を大切にできなかった人は、自分の子どもにも大切にされない

同居する祖母(父にとっては実母)の世話をするどころか、認知症の祖母の襟を掴んで引っ張ったり蹴ったり、外に閉め出したりしていた父。
「あっち行け!こっちくんな!」とか「小便漏らすなんて犬以下や!」とか言葉の暴力も多々。
祖母が入院しても、通うのは母だったし、親の介護の【か】の字もなかった父。

その父が、自分が年老いて病院や施設に繰り返し入ることになっても、当然娘の私たちは見舞いには行きませんでした。
なのに「娘たちはなんで全然顔も見せにこんのや?」と母には言っていたらしい。

え?なんで来てもらえると思えるん?

自分の親には何もしないどころか暴力までふるっておいて。母も妻も散々苦しめておいて。万引きで何度も捕まっておいて。ご近所トラブルで迷惑をかけまくって訴えられ、高額な示談金まで母に支払わせておいて。子育てどころか娘たちに向き合うこともしなかったのに。

親を大切にできない人は、子どもに大切にしてもらえない、となぜ分からないのだろう?子どもは親がしてきたこと、見てるよ?

結局、亡くなるまで父と娘たちは歩み寄ることも分かり合うこともできませんでした。
葬儀の時には「私はこの世に生まれて良かったと思ってるし、毎日幸せに暮らしている。だから、私にこの命をくれてありがとう。」とだけ感謝して手を合わせました。

最後に 〜生まれてきた奇跡〜

両親、祖父母、曾祖父母、先祖代々の誰かひとり欠けても自分は生まれてこなかったわけだし、同じ両親から生まれた兄弟だってタイミングが異なるだけで人格も個性も違う別の人間になる。
そう思えば、私が今この身体と心を持ってこの場所で生きていることは、天文学的な数字ですら表せないぐらいの奇跡の積み重ねなんだなぁと思います。

だから命は大切に、なんてありきたりな言い方しか思いつかないけど、私という一度きりの人生は後悔なく楽しんで笑って、死ぬ直前まで幸せを感じていられたらなぁと思います。

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