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日記「読み手の自由は通用しなかった」

現代詩や小説や評論などなどあらゆる文章の解釈は読み手の自由である。と常日頃そう思っている。そう豪語する背景には誤読という大きな過ちに対する保険のようなものがあったりもするのだか。しかし今や難解化した現代詩においては解釈は読み手のご自由にどうぞと公言している詩人もいる。この言葉に甘えている自分がいることは否定できない。

大学入試をひかえた娘が現代文の過去問を解いている。予備校の先生に「あなたの解答は主観が含まれているから駄目なんだ」と言われたらしく頭を抱えている。どれどれ。なんとも複雑な文章である。もっとわかり易く書けよっ!と心の中で思う。次のうち正しいものを選べとの問。どれも似たり寄ったりでどれも正しいと思われる。いやおそらく正しいのだ。要するにムズい。あせあせ。主観を含んではいけないのだから答えは全て問題の文章の中にあるはず。主観を捨てるのだっ。どうにかこうにかして八割方正解を掴み取り、物書きとしての母の威厳を保ってほっとする。

「基本的に文章ってのは読み手の自由だと私は思っているから、あなたの言う事もわからないでもないけど、試験で正解するにはテクニックが必要なんだよ。」

と偉そうに言ってみる。すごく偉そうに言った気がする。

「文章を読むのにテクニックが必要なんて趣がないけどね。いとわろし。」

と古典用語を混ぜてみる。

娘は解答を間違えたけれど解答の言い分は想像力があってすごく良いと思うよ。でもね残念だけど試験では正解をもらえないんだよね。なんとももどかしいがその想像力は忘れないでいて欲しい。そして私は読み手の自由の権利を行使し過ぎないようにと思った次第である。

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