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現代性とは何か? 「ドライブ・マイ・カー」と「ワーニャ伯父さん」(2021年執筆)

『ドライブ・マイ・カー』で西島秀俊演じる舞台演出家・俳優の家福悠介が、映画の中で上演 する2つの舞台作品をどのように演出しているのかに焦点を当てながら、『ドライブ・マイ・ カー』について解き明かして行きたい。
この映画のなかで家福悠介が演出・主演を手がけるのは、サミュエル・ベケットの『ゴドーを持ちながら』とアントン・チェーホフの『ワーニャ伯父さん』である。 『ワーニャ伯父さん』は1899年にモスクワ芸術座で初演、『ゴドーを待ちながら』は1953年に ロジェ・ブラン演出により、バビロン座で初演されている。いささか図式的な分類だが「ワーニャ伯父さん」が近代演劇を、「ゴドーを待ちながら」が現代演劇を代表する、最重要作品といって良いだろう。

家福悠介という舞台演出家と、濱口竜介という映画監督を完全に同一視することはできない が、悠介と竜介という名前の相似や、『ドライブ・マイ・カー』で繰り返し現れる俳優の本読み における演出(ジャン・ルノワールの演技指導)の共通性から、家福悠介と、この映画を監督した濱口竜介は、近しい関係を持っていると仮定する。当然ながら『ドライブ・マイ・カー』内の 『ゴドーを待ちながら』と『ワーニャ伯父さん』を演出したのは、この映画監督濱口竜介であるので、ここから家福悠介=濱口竜介の演出について検討してゆく。

映画内でその理由は明らかにされないのだが、家福悠介という舞台演出家が持つ大きな特徴 は、『多国籍・多言語』の役者をキャスティングして舞台を作り上げる事らしい。

ここで、演劇演出家・家福悠介の先輩に当たる、日本における『多国籍・多言語演劇』の先駆者 鈴木忠志の『チェーホフの現代性』というテキストを引用したい。鈴木忠志は、『ワーニャ伯父さん』を初演したモスクワ芸術座で初めて演出を担当した日本人である。(2004年「リア王」定期公演演目として)

一般的には人間は言葉というものを共有したから、自分をも他人をも理解しやすくなり、人間関係は強固になってゆくと思われているが、チェーホフの戯曲の主人公は喋り話すほどに、周囲との関係が気薄になってゆくという特徴をもっている。本人の欲望や事実関係があいまいに見えていくのである。なんのためにこの人は喋り話すのか、それが共有されなくなっていく。「イワーノフ」の主人公イワーノフ、「ワーニャ伯父さん」の主人公ワーニャ、「桜の園」の主人公ラネーフスカヤにしても、みな同様である。彼らはすべからく、自分の境遇は不本意であり、失敗の人 生であると感じている。それを認めたくないとも思っている。だから、ますます自分が納得しやすく他人が共有しやすい過去から現在までの欲望や事実に、必然的な因果関係の連鎖があったか のように言葉を紡ぎ出す。物語の誕生である。自分のことを他人ごとのように客観的に喋り出すのである。だからその言葉の群れは、他人にとっては嘘のように聞こえ、話されている事実も本当か嘘か見分けがつきにくくなっていく。
                        ー『チェーホフの現代性』ー

重要な指摘である。またに「チェーホフの現代性」という言葉が使われている事は示唆的である。「現代性」とは何か?ここでサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』の最後の場面を引用し、さらに「現代性」について考察してゆく。 (鈴木忠志は家福悠介=濱口竜介と同じく『ゴドーを待ちながら』の冒頭シーンを初期代表作 「劇的なるものをめぐってII」で演出している)

ヴラジミール じゃ 行くか?
エストラゴン ああ 行こう。
(ト書き) 二人は動かない
                        ー『ゴドーを待ちながら』ー

言葉と、体が、一致せず分離し、対峙している。これが『ゴドーを待ちながら』の現代性であり、 鈴木忠志が指摘するチェーホフの戯曲が孕んでいた「現代性」の萌芽であろう。 私が『ワーニャ伯父さん』を読み感じていた理解もそのようなものだった。これは『ドライブ・ マイ・カー』終盤の最重要シーンとなる『ワーニャ伯父さん』の最後の場面、ソーニャのモノローグをどの様に理解するのかに関わってくる。ここでソーニャのモノローグから最も有名な部分を引用しよう。この言葉は『ドライブ・マイ・カー』においても最重要のモチーフとなっている。

生きてゆかなければ! ね、ワーニャ伯父さん、生きて行きましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命が私たちにくだす試みを、辛抱強く、じっとこらえて行きましょうね。今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人の為に働きましょうね。
                         ー『ワーニャ伯父さん』ー

このソーニャの言葉を「生への讃歌」や「絶望からの脱出と救済」に感情移入したい気持ちはわからないではない。しかしここでもう一度、鈴木忠志の『チェーホフの現代性』の引用部分を 読み返して頂きたい。そして『ワーニャ伯父さん』のソーニャのモノローグの続き部分を読んでみ よう。そうすると、このモノローグの「見分けのつきにくさ」が理解できるはずである。一読するとソーニャは生きることを語っている様に読めるのだが、実際にここで力強く彼女が語ってい るのは、ほとんど死の世界、死後の世界についてなのだ。続きはこうである。

そして、やがてその時が来たら、素直に死んで行きましょうね。あの世へ行ったら、どんなに私た ちが苦しかったか、残らず申上げましょうね。すると神さまは。まあ気の毒に、と思ってくださる。その時こそ伯父さん、あなたにも私にも、明るい、素晴らしい、なんとも言えない生活がひらけて、まあ嬉しい!と、思わず声をあげるのよ。
                         ー『ワーニャ伯父さん』ー

『ドライブ・マイ・カー』に話を戻そう。すると、奇妙な感覚に陥ってしまうのである。『ド ライブ・マイ・カー』で、家福=濱口が上演する『ワーニャ伯父さん』はこの「曖昧さ」「見分けのつきにくさ」とは真逆の演出がなされているのだ。『ドライブ・マイ・カー』はある共有と、 一致へと集約してゆくのである。ここで『特別鼎談 濱口竜介×三宅唱×三浦哲哉 映画の演出はいかに発見されるのか』から濱口の言葉を引用しよう。

濱口:プロットを書いた時点で、最後の雪山の場面、家福が妻を思っていろいろな言葉が溢れてく るところまで、最後のセリフもプロットにはほとんどそのまま書いてあって、その段階で、喪失から再生へ、という非常にベタというか「王道」の語り方が見えた。観客も最終的には理解でき、 もしかしたら共感もできる題材を扱っているんだなと。それがわかっていたからこそ、逆にここで (映画の冒頭部)負荷もかけられた。最終的には観客に報いるものにできるから大丈夫だと。だ から実際に撮影する段階でも、けっこう語りの無理は効くはずだと思いながら前半は作っていた 感じです。

三宅:面白いな。旅にたとえるなら、目的地がけっこう良い場所に決まってるから、その途中で メトロに乗ろうがバスに乗ろうがタクシー乗ろうが裏道入ろうが、最後は絶対に良いところに着くって確信があったってことですよね。

濱口:そうですね。その最後の景色が一番よく見えるように負荷をかけた。頑張ってくれたら良い ものが見れますっていう。そういうところはあったと思います。

途中で何が起ころうが、最後には絶対に良い所に着くという確信がある。その最後の、「頑張ってくれたら良いものが見れますっていう」風景とは一体何なのか?それはどこに存在するのだろうか?ここで『ワーニャ伯父さん』のソーニャ最後のモノローグ後半部分から引用する。この風景が正確に描きだされた箇所である。

ほっと息がつけるんだわ!その時、わたしたちの耳には、神様の御使たちの声がひびいて、空一面きらきらしたダイヤモンドでいっぱいになる。そして私たちの見ている前で、この世の中の 悪いものがみんな、私たちの悩みも、苦しみも、残らずみんなー世界中に満ち広がる神さまの大きな御慈悲の中に、呑み込まれてしまうの。
                         ー『ワーニャ伯父さん』ー

これは死後の天国の情景ではないのか?これが、頑張ったら見れる最後の景色なのだろうか?喪失から再生へ、という「王道」の映画。実際にこの映画を見ると、濱口の頭の中では絶えず「喪失から再生へ」というモチーフがこだましていた様に思える。なぜここまで、私が長々と『ワー ニャ伯父さん』のチェーホフや、『ゴドーを待ちながら』のベケットについて語ってきたのかというと、この二つの戯曲作品が孕んでいる『現代性』が、『ドライブ・マイ・カー』という映画 を冷徹に批評しているように思えたからである。ここから『ドライブ・マイ・カー』の本編につい て話を移して行こう。

家福悠介=濱口竜介の、「一致への集約」は映画終盤の『ワーニャ伯父さん』の上演で頂点に 達するのだが、その場面に至るまでにも『ドライブ・マイ・カー』の序盤からその「演出術」は 効果的に使用されている。家福悠介の愛車「SAAB 900ターボ」の車内で繰り返し流れる『ワーニャ伯父さん』のセリフを録音したテープを再生する事によってである。そのテープには、ワーニャ伯父さんを演じる家福悠介の声と、ワーニャ伯父さんの以外の全ての役の声を吹き込む家福悠介の亡き妻・家福 音(霧島れいか)の声が記録されている。『ドライブ・マイ・カー』では、各俳優の内面の心情に呼応し全編で『ワーニャ伯父さん』のセリフが「非常に」効果的に使用されている。一例を挙げれば、テープ音声で「涙」と語られた場面(音が倒れ死去しているのを発見する直前)では、家福悠介が、緑内障治療の為の目 薬を左目に絶妙なタイミングで指して、涙を流している様に見えるという演出がなされている。こ の音声と映像の一致については『ワーニャ伯父さん』の音声以外にも、様々多用されているのでもう一例あげよう。家福悠介と家福音が、19年前に亡くなった娘の命日法要から帰宅後のリビン グでセックスをした後、家福音が「前世はやつめうなぎだった」と語り出すシーンである。水 中・水底のやつめうなぎについての語りと、フレーム外で降る「雨(水)の音」が一致する。『ドライブ・マイ・カー』を評論したテキストを複数読んでみたが、大半はこの様な効果を見つけ、その演出力を高く評価するものが多かったように思う。実際そのような細部が周到に「ドライブ・ マイ・カー」には張り巡らされている。映画批評は「ウォーリーを探せ!」ではない。映画監督が期待する模範解答を提出するだけの批評に存在価値はないはずなのだが。左目の緑内障と左頬の傷、家福悠介の妻の音と渡利みさきの母、北海道での家福とみさきの姿勢 と、『ワーニャ伯父さん』最後のワーニャとソーニャの姿勢など、『ドライブ・マイ・カー』では様々な鏡像対応関係や、反復が多用されており、いくらでもその箇所を指摘してゆくことはできるだろう。鏡そのものについて言えば、家福音の不倫、そしてその死を家福悠介が発見する場面や、高槻とジャニス・チャンがアーストロフ・エレーナ役を演じるオーディションシーンで用いられている。この場面は、戯曲内でワーニャが二人のキスを目撃するシーンにあたり、家福はワー ニャとなって立ちすくむ事になる。さらに言うと、戯曲ではこの場面でワーニャは手に「花束」 を持っているのだが、この「花束」は『ドライブ・マイ・カー』終盤の北海道の場面で、家福が手に持つ「花束」として現れるだろう。これ以上あれこれ指摘すると長くなるので先へ進むことにする。

現在(2021年)、日本でチェーホフをレパートリーに据えて演劇活動している劇団の代表例は京都に拠点を構える「地点」であろう。チェーホフの四代劇『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』『桜の園』をレパートリーとし、また地点の創設メンバー兼主演女優の阿部聡子は『ドライブ・マイ・カー』に「広島演劇祭スタッフ」役として出演している。私見となるが、「地点」 演出家三浦基の数ある作品の中の代表作が『ワーニャ伯父さん』である。その「地点・三浦基」 による『ワーニャ伯父さん』での演出法が、『ドライブ・マイ・カー』内で家福が演出する『ワーニャ伯父さん』と、興味深い対照をなしているため、ここで地点『ワーニャ伯父さん』パンフレッ トより演出家三浦基の発言を引用する。

『ワーニャ伯父さん』に登場してくるのは、伯父、姪、父、後妻、医者などというように、親 しいようでいて実際は遠い人間関係です。そんな彼ら彼女らがあえてスキンシップするとしたら、 それは屈折したものになるでしょう。
ほとんど事故のような風景かもしれません。
                   ー『ワーニャ伯父さん』パンフレットー

この屈折や、事故のような風景とは何なのか?『ドライブ・マイ・カー』に出演した阿部聡子が所属する地点では『ワーニャ伯父さん』のソーニャ役として体現しているのである。「地点」三浦基演出の『ワーニャ伯父さん』では、ソーニャは最後の独白の間、ワーニャをひたすら蹴り続けるのである。一見奇抜の様に見えるが、これは正確な『ワーニャ伯父さん』読解である。これがソーニャとワーニャの間にある遠い距離を埋めるための屈折したスキンシップなのだ。『ドラ イブ・マイ・カー』での家福=濱口の演出と対照的ではないだろうか?家福=濱口の演出では、ワーニャ演じる家福を後ろから包み込む様に抱きしめるイ・ユナ演じるソーニャが、韓国手話で 最後の独白をする。同じフレームの中で二人は抱き合い、二人は一つとなる。ソーニャの独白が、そのままワーニャの独白であるかのように。家福=濱口の演出では二人の距離が廃されている。その廃棄がまるで希望であるかの様に演出されているのだ。この舞台で上演されているのは、本当に『ワーニャ伯父さん』だろうか?(補足すると、高槻・家福がワーニャ伯父さんを演じることが、ソーニャとの世代間の断絶を見え難くする要因になっている。初老のワーニャ伯父さんの未来と、若きソーニャの未来は当然異なり、当然見えている世界も違う)さらにこの演出と、フレーム選択によって、イ・ユナ演じるソーニャの韓国手話の身振りが持つ力が減じてしまったと様に思う。いくつかの場面でのイ・ユナの手話の身振りは、夫であるコンが「遅れて」、 声によって翻訳がなされていた。その遅れによって、私はその身振りを、運動を見ることができた。しかし最後のソーニャの独白シーンでは、豊かな運動というよりも、映画の観客に「喪失から再生へ」というメッセージを伝える為の、分かりやすい意味へと変わってしまった様に見える。

途中で何が起ころうが、最後には絶対に良い所に着くという確信がある「頑張ってくれたら良いものが見れますっていう」風景と、屈折した、ほとんど事故のような風景。この対照的な二つの風景の、どちらが『現代』の風景なのだろうか?

最後に「ドライブ・マイ・カー」のクライマックスシーンの一つである、走行する「SAAB 900 ターボ」後部座席で、家福と高槻(岡田将生)が、家福音について延々と語り合うシーンの後に、この車を<完璧に>運転する渡利みさき(三浦透子)が語った言葉に言及してこの論考を終える。高槻と別れた後、家福と話すみさきは、このように話す。「私は嘘に囲まれて育ったから、 他人が嘘をついているかどうかが分かるんです」水商売で働くシングルマザーに育てられ、酒に酔うと手をあげる事もあったという母との生活の中で、「嘘を見分けられる」能力を会得したというみさきは家福に、高槻は「嘘をついている様には思えなかった」と太鼓判を押す。私はここに違和感を覚えた。「私は嘘に囲まれて育ったから、他人が嘘をついているかどうかが分かるんです」はたしてそうなのか?ここで鈴木忠志の「チェーホフの現代性」末尾を再引用しよう。

自分が納得しやすく他人が共有しやすい過去から現在までの欲望や事実に、 必然的な因果関係の連鎖があったかのように言葉を紡ぎ出す。物語の誕生である。
自分のことを他人ごとのように客観的に喋り出すのである。
だからその言葉の群れは、他人に とっては嘘のように聞こえ、話されている事実も本当か嘘か見分けがつきにくくなっていく。
                        ー『チェーホフの現代性』ー

「私は嘘に囲まれて育ったから、他人が嘘をついているかどうかが分かる(因果関係)」とは限らない。全く逆な場合もあるだろう。そんな環境で育ったからこそ、あえて分かりきった嘘を、 あっさりと信じてしまう事もありうるはずだ。もちろんこれは、後部座席で、高槻の語った言葉を観客に強く信頼させる為の演出であり(高槻の殺人シーンが省略されるのもそれに起因するだろう)、これを濱口竜介監督の手腕と見ることもできようが、私は首を捻ってしまう。

常に安心で、快適な走行をしてくれる、完璧なドライバー渡利みさき。
まだ若いのに、これ程までに安定し落ち着き払った、常に冷静な彼女。
私は映画を見ていて、みさきが、とても心配になってしまった。大丈夫だろうか?
うっかりした渡利みさきが、赤い「SAAB 900ターボ」を、大破させてみたり、
駐車場で隣の車に擦るようなシーンがあったなら、私はとても安心ができたのに。

しかしそういうシーンは、完璧な渡利みさきからは、全く想像ができない。


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