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大切な家族を亡くすという経験

4月18日から5月24日までという
40日たらずの間に、わたしの家族は形を変えました。

4月のある日曜日の夜、いつものように実家に電話すると、母が
「3月から体調が悪いので、病院に行くことにした」
というのです。

どきりとしながらどんな症状か聞いてみると、どうにも気になる内容で。

電話を切った後、母から聞いた症状を検索すると、出てきたのは信じたくない病名でした。

「素人が勝手な判断をしちゃいけない、まだきちんと検査を受けたわけじゃないんだから」
と自分に言い聞かせて母が病院に行ってきた日に連絡すると、
「大きな病院に行くように言われて、予約も取ってくれたから行ってくる。」

やはり何かある。

母がその検査をしにいった日の夜
「どうだった?」
と電話すると、母が
「お姉ちゃん、びっくりしないで聞いてね。」
というのです。

「私、すい臓癌なんだって。
胃と肝臓にも転移していて、
もう手術もできないんだって。」

実は、すい臓癌は、わたしが母から聞いた症状で検索した時に真っ先にヒットした病名でした。

だから、驚いたり、信じたくない気持ちと共に、
「やっぱりそうだったのか・・・」
とも思ったのです。

「私もさすがに
『先生、私、後どのくらいですか』とは聞けなかったわ」
という母に、なんと言葉をかけていいかわかりませんでした。

母は翌週その後の治療方針を決めるためにもう一度診察を受け、
「(我慢できない症状が出るまでは)自宅で過ごしてはどうか」
と言われたものの、
「もう少し家族と過ごしたいから、何か少しでもできる治療があるなら試したい」
と希望。

そのため、一番弱い抗がん剤治療を試みることになりました。

まずは2週間くらい入院して最初の抗がん剤治療を行い、その後は退院して、自宅から毎週抗がん剤投与に通う、という予定でした。

実家ではこれまで、母が半身不随の父を在宅介護していました。

母が入院するため、父をこれまでのように在宅介護することはできず、父は母が入院する前日にショートステイに入り、その後介護老人保健施設に
入ることに。

わたしは父がショートステイに入り、明日母が入院する、という日に帰省しました。

妹と一緒に母が入院するところを見届け、それから数日は実家でリモート勤務をしながら仕事の前後に家事をし、毎日母に面会に行きました。

たった数日で、家ではものにつかまりながら歩いていた母が、トイレにも車椅子で連れて行ってもらうようになり、ほとんど食事ができなくなっていました。

わたしが東京に戻る日、母に面会に行くと、看護師さんから
「お母様はなかなかお食事もできなくて、今お手洗いに行っています。
すぐに横になっていただいて医師の診察を受けていただかなくてはいけない状態なので・・・」
と、暗に面会は控えて欲しいと伝えられました。

ただ、その時はおそらくわたしが来ていると聞いた母が希望して、少しだけわたしに顔を見せに来てくれました。

その後の病気の進行は、わたしたちが思っていたよりもずっと早かったのです。

1度目の抗がん剤治療はできたものの、2度目はできず、予定通り退院する事もできない状態でした。

札幌の妹から送られてくるメールを読み、症状の進み具合を知って心配しても、わたしにはすぐに札幌に飛んで帰れない事情がありました。

実は、母の病気がわかる少し前、引越を決めていたのです。

でも、5月半ばには医師から
「会わせたい人には合わせておいた方がいい」という話があったと妹から連絡があり、わたしは一泊二日で母に会いに行きました。

妹から母の病気が進んでいることを聞いてはいたのに、この前会ってから3週間程で母はびっくりするくらい弱り、その姿を見るだけでも胸が潰れそうで。

病室を出てエレベーターに乗った途端、嗚咽を止められませんでした。

その翌日は前日よりは少し話ができ、
「お母さん、またくるからね」
と握手をして、後ろ髪を引かれながら、東京に戻りました。

その数日後には、引越しが待っていました。

でも、東京に戻ってから2日後には妹からの
「あと数日中と医師からお話がありました」
というメールが。

読んだ後、職場でも泣けて泣けて仕方がなくて。

引越翌日の午前の飛行機を予約し、
「お母さん、わたしが行くまで待ってて」
と祈り続けました。

5月23日の引越の日の夕日は信じられないくらい美しくて。

わたしは夕日に向かって
「神様、もう少し、まだ母を家族と一緒にいさせてください」
と祈るばかりでした。

でもその夜、後少しで日付が変わる頃、妹から泣きながら
「お母さん、呼吸も弱くなって来てて…」
と電話が。

わたしは
「もっと早くに帰れなくてごめんね。
明日帰るから」
と言うことしかできませんでした。

その夜は満月。
厳かな、でも優しく輝く月を見ていると、母が見守ってくれているようで、
わたしは月を見ながら眠りました。

そしてほぼ同じ時間、24日未明に母は亡くなったのです。

自分が長くないことを悟っていた母は、生前に自分の葬儀の希望を兄と妹に伝え、兄が母の弟である叔父にも相談しつつ葬儀の準備を始めていました。

そのため、母の葬儀はほぼ母が望んだ形で行うことができました。

これがコロナ禍真っ只中であれば本当に家族だけで母を送ったと思いますが、コロナ禍明けだったため、親戚にも母の入院中にお見舞いにきてもらったり、葬儀にも北海道のかなり遠くからきてもらう事ができたのは不幸中の幸いでした。

母のおかげで、わたしたち家族もしばらく会うことのできなかった親戚と再会する事ができたのです。

葬儀の後の様々な手続きなど、兄妹で協力して進め、東京に戻ったわたしは
引越後の荷ほどきをしながら仕事に戻り、気がつけば6月が終わろうとしています。

もうすぐ母の四十九日。
いまだに現実感がありません。

でも、母が亡くなって、母がたくさんの方に愛され、大切に思っていただいていたことに、改めて母の大きさを感じました。

これまで母を支えてくれたたくさんの方、そしてわたしたち家族を愛し、いつも支えてくれた母に、心から感謝しています。

お母さん、ありがとう。
大好きだよ。

長くなりましたが、今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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