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わが君は

先日、ピーター・J・マクミラン氏の「満開の山桜、日本の心」と題する文章を読んで感銘を受けた。

氏はアイルランド出身の日本文学者/翻訳家/詩人で、「星の林に ピーター・J・マクミランの詩歌翻遊」という記事を「朝日新聞」紙上に連載している。

氏はその日(2023.8.13)の記事の中で、本居信長の代表歌として知られる「敷島のやまと心を人問はば朝日ににほふ山桜花」を引き、「この美しい歌が戦争に利用されたことを悲しく思った」と述べている。

https://www.asahi.com/rensai/list.html?id=315

この文章の結論として、氏は「文学が戦争によりイメージをゆがめられた例は他にもある」として、「惑わされず、客観的に鑑賞するようにしたい」と述べている。

このくだりを読んだときにわたしの頭によぎったのは、「わが君は」の歌。

題しらず   よみ人しらず
三四三 わが君は千世にやちよにさざれいしのいはほとなりてこけのむすまで
(本文ならびに歌番号は『新編国歌大観』所収のテキストによる)

国歌「君が代」の元歌となったこの歌が、「古今集」所収の歌であることをわたしが知ったのは高校生のときだった。
 
両親が買い与えてくれた「コミグラフィック 日本の古典」のうちの一冊「枕草子」(暁教育書房、平成4年3月)の一場面で、はじめてこの歌を目にした。

「コミグラフィック」は、日本の古典の名作を、若い読者向けに紹介したシリーズ本である。辻真先氏が全巻構成を担当し、写真やグラフを織り交ぜ、現代の漫画家がストーリを展開している。

本巻の「枕草子」は、「更級日記」とともに、矢代まさこさんが作画を担当している。
 
両作品ともに、氏の描く人物は、学習マンガにありがちな、読みやすくしようとするあまりに人物の造形が軽薄になってしまっているというようなことはなく、描かれた女性たちには現代的で知的なセンスに満ちたかわいらしさが備わっている。
 
その「枕草子」の、清少納言が「お美しくて、お優しくて、気品高い中宮さま」として慕う藤原定子は、余談だが、当時17歳だったわたしが恋焦がれていた年上のひとにおもかげがよく似ていた。
 
この歌が登場するのは、「清涼殿の丑寅の隅の」(二〇段)である。
 
清涼殿の鬼門にあたる丑寅(東北)の隅にある御障子みそうじには、波の荒い海やこの世に生けるおそろしい生き物である「手長足長」などが描かれているのだが、そのすぐ近くにある高欄こうらんの青磁のかめに生けられた枝の桜が見事にうつくしく吹きこぼれている春の日。
 
御膳を召された主上おかみが、またすぐに中宮定子のお側にお出でになる。
中宮定子は清少納言に、硯の墨をするようにと命じられる。中宮様がなにかを企んでいらっしゃると予想したとおり、定子は白い色紙を押したたんで、これに覚えている古歌を一首ずつ書け、と女房達におっしゃる。
ありきたりの古歌を一つくらい暗誦してみせたところで定子を喜ばせることにはなりはしまいと悩んだすえ、清少納言は「としふればよはひいぬしかはあれど」の歌を選んで書きしたためる。
手にとって上の句から声に出して読みはじめる定子。
その脇でどきどきしている清少納言。
まわりの女房達が、下の句にいくまえに自分もその歌は知っています、美しい歌です、などと口々に評し、女房の一人は定子が読むより先に、「花をしみればもの思いもなし」と、下の句を先に読みあげるのだ。
ところが定子が読んだ清少納言の書いた歌では、「花」が「君」に変えてある。
 
としふればよはひいぬしかはあれど花をしみればもの思ひもなし
といふことを、「君をし見れば」と書きなしたる、御覧じてくらべて、「ただこの心どものゆかしかりつるぞ」とて(後略)
(「枕草子」原文のテキスト引用は、岩波「日本古典文学大系13 枕草子 紫式部日記」所収の本文による 以下同様)
 
このあたりの人物たちの会話のやりとりは、コミグラフィックの読者向けに用意された翻案である。原文では、引用部分のように、あっさりとしか書かれていない。
 
「なんてうれしい歌でしょう 少納言 こんな歌がほしかったのですよ わたくしは……」
そう言ってほめられた清少納言は、女房達に得意面の絵顔を見せる。
 
というのが前置きで、そのあとが「わが君は」の歌。
 
古今の草子さうし御前おまへにおかせ給ひて、歌どものもとをおほせられて、「これがすゑいかに」とはせたまふに
 
定子は「それではねえ みなさん これからわたくしの詠みあげる古歌の下の句をみなさんで当てっこするのですよ」
そばにいる主上おかみもそれを「おもしろい趣向だ」と期待する。
そこで定子が最初に詠んだのが、「わが君は」の歌。
定子の「わが君は千代に」につづけて、ひとりの女房がすかさずすっと立ちあがって、「八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」と、歌の続きを口ずさむ。
 
原文にはこのようなシーンはない。これもまた、コミグラフィックの翻案による創作である。だれがどの歌の下の句を言い当てた、というような具体的な記述は原文にはない。
コミックグラフィックにはこの歌について、「古今和歌集/雅歌がしょう /詠み人知らず」と記されてはいるが、後にも先にもこの歌についてのくわしい註解は書かれていない。
それでも実際に、定子が古今集の草子を手にし、詠みあげた歌の中に、巻第七「賀歌」の冒頭歌であるこの歌が含まれていたことは想像に難くはない。
 
当時のわたしは、思春期の心にきざす反抗的な気分というものに、毎日の行動や思考を揺すぶられているのが常だった。
それは別段わたし自身に確固たる思想や信条のたぐいがあったわけではなく、近代の文学青年の多くが左翼にかぶれたのとおそらく同じ理由からのものだ。
権力の生み出す不条理というものに過敏に反応してしまう一過性のこの罹り病は、国家とか政治とか社会とかいう、みずからの想像力の枠内に収まりきらない巨大なものに対して、より強く反発しようとしていた。
 
「君が代」についてもそれは同様だった。
反戦、平和、差別、といった文脈では、「君が代」は死ななくてもよかった多くの命を奪うことになったあの残酷な戦争に都合よく利用されたものである。そのことを識っている以上、例えばそれを卒業式のような場でわたしたちが唱和させられることに反抗せずにはいられなかったのだが、ひそかにあこがれているひとに似たうつくしい定子が、「わが君は」の歌を暗誦の課題に取り上げて詠みあげる場面は、わたしの気持ちを乱した。
 
わが君は千世にやちよにさざれいしのいはほとなりてこけのむすまで
 
この歌の調べの本質は、天皇制やナショナリズムといった肩の張る重くるしいものではない。「花」を「君」に変えて、宮さまといっしょにいられるなら何のもの思いもしなくていいと、定子をたたえた清少納言の心情と同様な、気高くうつくしいものへの思慕と尊敬の思いなのだ。当時のわたしはそんなふうに感じて、その後、大学は国文学科へ進学したいと思うようになった。
 
いつの間にか自分の本棚から消えてしまったコミックグラフィックだが、いまこの本のことをなつかしく思い出して図書館で借りてきたのを見ながら、この原稿を書いている。
高校生だったわたしがこの歌をはじめて見たときの印象が、当時のときそのままに鮮烈によみがえってきた。実になつかしい。

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