芸術は無くなるのかもしれない
ふと思った。
最近は、アーティストの音楽CDを買って
最初から最後まで集中して鑑賞する、ということが少なくなった。と。
映画にしたってそうだ。
基本的にNetflixやアマゾンプライムで、食事しながら見る程度で、わざわざ映画館に足を運んで、映画と向き合う機会は減少した。
コンテンツと対話する時間が減ったのは
私だけだろうか?
多くの人は毎日スマホを介して人と繋がる。
人とのつながりを求めすぎるあまり、SNSを一日中見ているような人だって、正直珍しくもない。
現代において人と人は気楽につながりを過ぎる。人は常に他者を監視しており、それは同時に自分も監視されていることを意味する。
見られているせいか焦りが増え、時間に追われる感覚が増幅していく。
結果、落ち着いて心に養分を与えるような活動よりもとりあえず短い時間で楽しめるようなコンテンツが一気に世に広まった。
(最たる例はyoutuberたちである。)
気軽に世界に向けて発信できるようになり、誰もが人気者になれる素敵な世界と同時に、
受信側も十分に時間をとらずになんとなく視聴、鑑賞するスタイルが定着してきた。
そうなるともはや、コンテンツの良し悪しを決めるのは受信された回数(再生回数、チャンネル登録者数などの数字)によって決まってしまうのではないだろうか。
それでいいのかもしれないが、僕は違和感を覚える。
全ての美しさを言葉にできない以上、全ての価値を短い鑑賞時間から発生する数字によって決めるのは、社会に溢れるコンテンツの解像度が著しく落ちるような気がする。
何が良いのか、何が美しいのかわからない
そんな狂気の世界の中で
作品を心の底から納得するまで磨き上げる人が居なくなるということは
コンテンツに対して、受け手が心の底から感動するという機会も損失してしまうことを意味するのではないだろうか。
多くの発信者が、羽を必要以上に大きく広げる孔雀のように見える。
(そうじゃない発信者ももちろん沢山いる。)
隠した爪を極限まで研ぎ澄ます鷹のような芸術家がこの世から消滅しないことを、切に願う。
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