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家風呂[受動的]×銭湯[能動的]

 ここ最近、毎日のように文章を書いているが、次は何を書こうか、と思うことが多く、ふと、文字を打つ手が止まる。
しかし、それでいいのかも知れない。

 思考のスピードを落として、つらつらと思いの丈を吐く。
 デトックスのようなものだ。 
 日常、ひらめいては消えていく思いを、ゆっくりと指のスピードに合わせて、考えふけるというのは、流転していく思考を繋ぎ止めるのに、丁度いいのだ。

 なぜ、こんなにも繋ぎ止めておきたいのか。
 私はきっと、全てが知りたいのだ
 なぁなぁで納得できないというか、末端を知ってしまったら、それの全貌から、詳細まで知りたくなる。
 いわゆる、オタク体質のようなものかも知れない。

 好きなアーティストができると、全ての楽曲を聴き、人物像やそれでは飽き足らずその曲が出来た裏話などの知識を貪り食うのだ。

恐らく、素晴らしい絵画が飾ってあったら、額縁まで賞賛しだすタイプであろう。

 全てを知りたい欲はまだまだ収まることを知らず、動画を見ている時にお花を積むときは絶対一時停止するし、テレビを見ていたころは、続きが気になって風呂に入るタイミングを失う、なんてことも多々あった。

これを周りくどい言い方に変換するとなると、
知的好奇心を満たすために、人は動けなくなるということである。
別名『風呂いつ入るの?状態』ともいう。

自分にとって風呂とははとても難しいものだ。
 風呂が溜まったり、入れるようになるタイミングというのはいつも唐突にやってくる。
 つまり、受動的なのである。

 その点、同じ風呂だが、銭湯などは少し勝手が違い、能動的だ。

家風呂[受動的]×銭湯[能動的]

 銭湯は、自分が行動した先には必ずある。
 なぜなら、休館日でない限りは銭湯が逃げることはなく、休館日であったとしてもまた近くの銭湯を検索するであろう。
 つまり、自分の『風呂入りたい』という意志と直結して、銭湯というものが存在しているのだ。

 家風呂の場合は、『風呂入りたい』という点で、始まりは同じだが、そこには、自分にしろ、他人に任せるにしろ【溜める】という行動が介入するのだ。
 【風呂に入りたい】という意志が行動になり、湯を溜めはじめる、しかしそこから衣服を脱ぎ捨て湯に浸かる瞬間までのタイムラグが存在する。

 その湯が溜まっていく様子を、冬は寒く、夏は暑い風呂場でずっと眺めていられるであろうか。
【※ホテルなどの異様に溜まるのが早い風呂は除く。】

 否、アサガオが花開く瞬間を見られないように、野菜や果物が腐っていくのを見逃すように、人は風呂が貯まる瞬間を観測できないのだ。

つまりは、人にとっては、遅すぎるスピードで変化しているものは刺激が少なく、見ていてられず、その変化に気づきにくいのである。

 自分より早く、瞬くように過ぎていくものを躍起になって追いかけ、自分よりも遅いものを不変と思い込み、その変化を見逃す。
 流れ星の周りの星に興味を持てないのである。

 そう考えると、生き急ぐ事なく、歩くよりも遅いスピードで、物事を捉え、その変化を見逃してしまわないような人になりたいと、切に願う。

なぜなら、流れ星の周りの星々も我々が到底追いつけないスピードで回っているのだ。

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