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アウシュビッツに行ってきました①|本と映画紹介

みなさん強制収容所という言葉から何を連想しますか?


ポーランドにあるアウシュビッツ強制収容所は第二次世界大戦下のドイツ、ヒトラー政権によってつくられました。

この記事ではアウシュビッツ強制収容所に行くまでに私が訪れた博物館と当時を行きた人々のエピソードを紹介します。

【アウシュビッツ強制収容所ツアー】
https://www.auschwitz.org/en/ (公式ホームページ)

私は今回 Get Your Guideを利用してツアーに参加しました。
https://www.getyourguide.jp/?visitor-id=DEE7D6C473944A3BA4234856363F4487&locale_autoredirect_optout=true

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アウシュビッツ=ビルケナウⅡ

アウシュビッツ=ビルケナウ強制・絶滅収容所
この門をくぐった者は生きて帰ることはない
人々はこの車両に乗せられ何日間、何十日間も移動させられました。もちろん座ることもできない、トイレもない、食事も水もない、窓もない地獄のような環境がここから始まりました。
これは外についている鍵。もちろん中からは開けられないようになっています。人間以下、動物以下、まるで荷物のような扱いを自分自身と同じ人間にしていました。
長い列車旅で収容所に着くまでに多くの人が命を落としました。こうして収容者は隠されながら遠くの地に運ばれ、人の手によって無惨に殺されていきました。

列車で人々が収容所まで運ばれる様子は映画「シンドラーのリスト」にも出てきます。

ナチスによるユダヤ人大虐殺から多くの命を救った実在のドイツ人実業家オスカー・シンドラーを描いた名作。
ここは女性が収容されていたところです。女性は労働力として働かされていました。現在は博物館になっており、中で当時を生きた女性たちが残したものを見ることができます。
これは何かわかりますか?これは収容所に張り巡らされているフェンスです。収容所内の建物だけでなく、フェンスまでも収容者は作らされていました。しかも女性がです。
このフェンスです。自分の手で自分が死にゆく地獄の場所を作る。
私はこの場所を訪れた時、人々の強い屈辱を感じました。
ここは収容所ではないですが、収容所の周辺住民が残した様々な証言が記録されています。
逃げた収容者をかくまったり、夜にこっそり収容所の近くへ行き食べ物を置いてきたりと、当時のナチス政権に秘密裏に抵抗し、収容者を助ける人々の証言がとても印象的でした。

今まで映画を観てきて、このような行動を反映した作品には出会ったことがありませんでした。しかし、最近公開された映画「関心領域」に詳しい説明はないものの、そのような描写がなされていました。


収容者の労働場所に食べ物を隠している様子です。
この少女は実在の人物であり、当時12歳でした。

最初にあげた車両の写真なのですが、その車輪には「D.W.V」の文字がありました。私は最初ナチス政権と関係の深い会社のかと思いましたが、調べてみると「ドイツ国有鉄道車両協会」でした。

1909年設立 Deutscher Staatsbahnwagenverband


最後に、数日後にベルリンを訪れた時に見つけた像を紹介して終わりにしようと思います。

“Trains to life, trains to death”
人生への列車と死への列車
(ベルリン市内にて)
ある人々にとっては生活のための鉄道であり、ある人々にとっては収容所へ向かう死の鉄道でした。背中を向け、死へ向かう人たちに全く関心を向けていない様子から、負の歴史からの教訓を学ぶことができます。

【本の紹介】

本書は、みずからユダヤ人としてアウシュヴィッツに囚われ、奇蹟的に生還した著者の「強制収容所における一心理学者の体験」(原題)。
ナチ占領下の異常な環境の中で13歳から15歳という思春期を過ごした少女アンネ・フランクの日記


最年少の生還者がつづった実話

最後までありがとうございました。

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