見出し画像

愛されているのは、それ以上に愛しているから

現在、募集中session(〜4/29まで)

詳細は下記リンクより



こんにちわ!yukiです


今年の3月から、
インフルエンスについて学んでおり、
日々、実践を通して学びを深めています。


やればやるほど、
今まで「インフルエンス」や「インフルエンサー」
というものに対する、嫌悪のような固定概念が
崩れていくような感覚です。


別に「インフルエンス」や「インフルエンサー」に
影響を受けることはいいと思うけど…
と、口では言っていたとしても、
何事も自分で決めなきゃいけないじゃん、とか
心の中ではまだケチをつけている、否定している。

そんな自分に直面するばかりです(笑)

で、身近に『インフルエンス』を本質的に捉え
それを誰かのために扱う方たちをみて、感じる中で
この方たちは、
なぜ選ばれていくのか、
なぜ愛されていくのか、を
私の視点から感じたことをお話ししていきます。






まず、愛され、選ばれていく人たちは
なぜそうなっていくのか。

その答えは

人を愛することが上手だから


と、思うのです。


この、愛する、というものは技術だな、と私は思うのです。
これもただ一つの視点でしかないのですが。

私の好きな本のひとつ
エーリッヒ・フロムの書籍
『愛するということ』に
愛するというものは技術であるという視点で
語られています。


(やや抽象度は高いものの、愛する人がいる人たちにとって、
とても大切なことが述べられている本だと思うのでオススメ)



人を愛しているから、
愛を返してもらえる。

だけど

愛を返してもらおうという理由で
人を愛することをしていない。

本当に愛される人はそうであると感じます。


フロムは、愛をこう語っています。
『愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。』
そこには、配慮や責任、尊重、知(知ろうとすること)という要素が関わると。


私が影響を受け、そして
その人の与えようとしてくれるものを手に取る時

インフルエンサーだけでなく
自分が大好きなアーティストやブランドのことを考えた時

これら要素が揃っている。


私がその人たち、そのものを愛する以上に
その人たちが私たちを

愛してくれている


だからこそ、その愛に応えたくなる。


相手のことを知ろうともしなければ
相手の心には届かない。
知ろうともしなければ、
相手がどんな状況で、どんな感情なのかも
わからない、わからないから配慮もできない。
相手を知りもしないのに
その人に、こうなればいいのに、は
尊重のかけらも感じない。
相手が求めることを知らなければ、
それに応じるという責任を果たせない。


じゃあ、それらをしてあげれば愛と言えるのか?


その根底にあるものが
相手を変化させたい、
自分の思うような形にしたい、
であれば、
「愛する者の生命と成長を気にかける」
という点から外れてしまう。


誰かを愛することというのは

ここまで深い。


そして、その技術が高い人が

愛され、選ばれていく。





ここで、私が好きなゲームでのセリフを引用させてもらうが、

『100人に愛されるおまえじゃなくて、おまえに愛されるおまえになれ。

そしたらいつか、1万人がおまえを愛するようになる。』


誰かに愛される前に、自分に愛される。

誰かを愛する前に、自分を愛する。

愛されるから、愛すのではなく
愛するから、愛される。

自分が自分に愛されるには、
自分が自分を愛する。


自分に対する行為=他人に対する行為

であり、

自分を愛せない人が、誰かを愛することはできない。


愛されることは求めるものでなく

結果。


愛され、選ばれていくのも

結果。



でもね、みんな無意識に気がついていると思ってる。

インフルエンサーや自分の大好きな人たちに

たくさんの愛を受け取ってきていることを。


たくさん受け取ったからこそ、
もらったものを誰かに届けたいって思うのだと。
誰かを愛し与える姿が
とっても素敵なものだと感じ取っているのだと。

何か、誰かに与えたい、
その純粋な思いの出発点は

いつだって


私も、愛を届けたい

私も、愛したい


なんだ、と思う。


私は、『インフルエンス』というものを通して

『人を愛すること』


を、学び、体験しているのかもしれない。


他者から愛される前に、自分が自分に愛されること
そして
愛されるのは、愛するから。

愛するには
配慮、責任、尊重、そして知が重要。

やはり、まずは

【自分】を知ること

この重要性にも回帰するな、と
ここまで述べてきて最後に感じることです。