『傘』

 住まいは、一棟を四部屋に分けた寂しいアパートメントであった。
 部屋の扉を開くと廊下から窺える外の雰囲気は、隣家の生垣でいつも光を奪われている。
 ボクは、その、ほの暗い廊下を歩み、下駄箱から、ことどとく古びたスニーカーを取り出す。大学生時分から同じモデル、同じ色を履き潰し続けている。このモデルは、夭折した、憧れのロックスターがよく履いていたものだ。彼は、喜びと悲しみをともに湛えた瞳で、いまもボクの記憶に染み込んでいる―――。
 框に座り込み、踵を無理やり滑り込ませると、ゴムがすれる音がする。独特な歩き方の癖なようで、いつも踵の生地がすぐダメになってしまうのだ。結びっぱなしの靴紐は都会のチリに黒ずみ、わずかに締まりがズレた部分だけ、元々の白さをのぞかせる。
 仕度を整えて、アパートの重たい扉を開ける。元来、居住スペース以外の内部に何等かの機械を置いていたらしく、防音設計の、この扉は重たい。ボクは、肩を接点に体重を乗せて、ようやく社会に触れる。
 外に出てみると地面が沸騰したかのように、あわ立っていた。中空をそらみ、視覚と聴覚を支配するホワイトノイズを雨だと認識するのに、コンマ数秒、一般人よりも遅れをとったであろう。それだけ、防音設計のアパート、そして、いつも曇り空しか見せてくれない廊下のすりガラスは、丈夫にできているらしい。
 折角履いた靴、折角開けた扉の所作をもう一度繰り返し、自居から錆付いたビニール傘を手にしたボクは、まどろみのような下降気流に包まれながら歩き出す。
   ◆
 雨は嫌いだ。やはり、歩き方がうまくないのだろう、足先はものの数秒で湿り気を帯びてくる。その感覚がいつも苦手で、自然、足の指を丸めて歩くのだが、これはもう気休めでしかなく、白と黒のコントラストが利いたロックスターの靴であっても、そのつま先に砂利のようなものをどんどん帯びていく。
 脳みそが、半分足に先まで行ってしまっている頃、歩きながら何を考えていただろう。きっと、傘の進歩についてであったかと思う。
 「濡れる・湿る」、そんな不快感を己だけが避けるために、半径30センチの円に逃げ込み、超個人的な空間をつくる。決して、それで完全にその感情から逃れられるわけではないけれど、そのいくばくかの円に救いを求める方途はかれこれ数百年と、その様相を変えられずにいるのではなかろうか。生地に透過性がなければなおのこと、水平に保ったときの視界は、己とあわ立つ地面、ノイズ、足先でジワジワと拡がる不快感ばかりであって、止むにやまれず、円柱に閉じ込められている気分になる。
   ◆
 雨は嫌いだ。それは、傘を媒介にして、日々のこんな閉塞感が顕在化するからなのかもしれない。
 「傘」を差し始めたのはいつ頃からだろう。中学生時代、対人恐怖的になることは、いわゆる思春期というやつで、その、自信と羞恥の念のアンビバレントな空気感にたえきれないボクは、自然と、人ごみを、人を避けるようになっていた。
 これも不思議なことに、冬になると、自分の醜さが気になって仕方がない、という悪習も身についた。それはまるで、梅雨に傘を差してばかりいるように、ボクは冬になると、いつも決まって心に小さな円を描いて、人々との接触を避け、自らの傘に閉じこもっていたのかもしれない。そんなボクにとっては、秋空よりも、心にしん、と入り込んでくる冬の朝の青空の方がどこか広く見え、塞いで視野の狭くなった思考を、一瞬間だけ、落ちつかせてくれた。
 上を向く。何か目と目で会話をするときのような心のつながりを感じる。このつながりを感じられるのは、この瞬間だけなのかもしれない。普段、人々に囲まれた世間では、ボクとそれ以外に、ひやりとした薄膜がはられてしまう。
 歩みは、自宅近くのバス停で止まる。傘を差している分、普段よりも人々の置く間隔は心なしか広い。各々、何か自身の思索に暮れ、狭い世界に閉じこもっている光景は、得も言えない恐怖をも感じる。
 しかし、ボクは、つねにすでに、この感覚に浸っていることを、一方で自覚している。「違和」と接していること。いや、人が人を介在せずに存在する世界。その存在の不思議さ、おかしみにひどく愛着を持っている。
 自然を前にした、己の孤独さ、矮小さではなく、この「違和」に独り佇むことをこそ、どこかでボクは切望している。

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