失し物/失す物

 胎動という言葉は良い。地球が動いているようだ。心地のよい水に満たされて、大いなる愛に包まれて、まだ見ぬ未来に眠る。
 これから萌す命の歩む道は苦悩なのか、快楽なのか。
 過去から将来の道を照らす暖かな光なのか、はたまた迷路のような暗闇に誘い込む魔女なのか。
 
 それは、悲しみと喜びのどちらが勝負を制するかという、当座の我々の認識によって、運命付けられる。どのような道を歩み、どのように終えるのか。その道筋を決めるのは、彼/彼女の認識如何というよりも、我々が予め形作る箱庭の風景次第なのである。

 こんなことをふと書いてしまったのも、発端は「母の死」を見つけてしまったことを思い出したからである。それはちょうど、忘れた頃に臆面も無く顔を出す失し物のように、私の前に現れた。無論、私はそのものに対して、何ものかを訊ねる気は更々持ち合わせていなかった。

 当時の私は「それ」を拾い上げ、部屋の片隅で貯えた埃を一吹きしてから、一応のこと、頭の中の引き出しにしまった。
 見つけた刹那、それはとても愛しく、かの時代を鮮やかに映すが、経年変化著しく、いつかは、ためらいながらも捨てられてしまうものを承知のうえで。
 結句、私にはそのようなものでしかなかったのだ。

   ◆

 かくして、私にとっての「母の死」というものも、時が経るにつれ、価値という光が薄れ、幾度かの躊躇を経て、いつしか捨てられてしまったようである。
 最後にひとつ、留意していただきたいのは、「母の死」をどこかに捨ててしまったという無機質な私の著述を、ゆめゆめ亡き母への愛情・恋慕の鏡写しであると解さないでいただきたい、ということである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?