見出し画像

私は神聖かまってちゃん側の人間だった。

劔樹人さんが神聖かまってちゃんからのちばぎんの脱退についてnoteを書いていた。

この件について、slackでシェアしては憂いたり回顧したりぶつぶつ独り言を言っていた。そうしたら、同僚に言われた。

神聖かまってちゃんそんなに好きだったの?


そう、好きである。

ハロプロなどについてはファンであることを公言していたのだが、神聖かまってちゃんについては、かなり個人的な思い入れによるところが大きく、いままであまり発言してこなかった。
あまりに個人的な思い入れなので、誰かと共感したい欲求も全くなかった。神聖かまってちゃんは、あくまで自分の中でしみじみと取り出したり眺めたりするような存在で、なんだか、うかつに言葉にできなかった。

ちばぎんが抜けることで、また新たな神聖かまってちゃんになることだろう。そうなる前に、なぜ好きなのかを言葉にしておこうと思った。自分のためにも。

とは言ったものの、神聖かまってちゃんは、実はそういった思い入れが特になくても十分受け入れられるような、魅力的な楽曲を数多く持ったバンドだと思っている。
そこで、前半では神聖かまってちゃんの「楽曲がキャッチーなんだよ!」という魅力に触れ、後半に、わたしの思い入れの話をさせていただく。

優秀なメロディメーカー・の子

そもそも神聖かまってちゃんを知るに至ったのはハロプロオタクだったからである。

ハロプロにハマりはじめた数年前、YouTubeにアップされているハロプロ動画をかたっぱしからみていた。
YouTubeのおすすめ機能は優秀である。モー娘。のライブ動画のおすすめ枠に、もとモー娘。の新垣さんことガキさんが出演している、神聖かまってちゃんのフロントメモリーのPVがおすすめされていた。

ハロプロの曲じゃないしな…としばらくはスルーしていたのだが、ブルドーザーのようにハロプロ動画を視聴した結果、焼き畑のように視聴済みの動画で埋め尽くされ、いよいよハロプロ曲でもないガキさん出演のコレでもみてみるかという段階にきたわけだ。

みて衝撃が走った。
え、曲が、良、、、?

いや、ガキさんはかわいいんだけど、そんなことより、曲がいい。なんなら、イントロのピアノからいい。後ろ向きが一周して前向きになるような憂鬱な歌詞もいい。
さらに、この曲では、ボーカルがの子ではなく川本真琴ががつとめるという変則的な取り組みをしており、それにも興味を惹かれた。
またこれが曲にマッチしているわけである。不思議なことに。

(歌うは川本真琴、演じるはガキさん、の子はどこに…?と思ったら一瞬なぜか女装姿であらわれる)
神聖かまってちゃんとは、なんなのだ?

これをきっかけに、神聖かまってちゃんの曲やその遍歴を知っていったのである。

もともとフロントメモリーを「圧倒的に曲が良い」と思ってディグっていった私である。まずは神聖かまってちゃん曲群のメロディのキャッチーさに惹かれた。
一連のムチャクチャで脚光をあびた神聖かまってちゃんを知る人には意外かもしれないが、の子はキャッチーなメロディを作る才能がピカイチなのだ。彼は、端的にいって、優秀なソングライターなのである。

冒頭にあげたフロントメモリー、一昨年、映画「恋は雨上がりのように」主題歌に起用されている。
アレンジャーに亀田誠治をおき、ボーカルはピュアでフレッシュな新人を起用。
なんということでしょう。一種退廃的な雰囲気が一新され、映画にぴったりな、さわやかさともどかしさと憂鬱さが表現された、キラキラした楽曲に生まれ変わった。
かんぜんに、小松菜奈の、圧倒的すぎる魅力にも負けてない。

これは楽曲のポテンシャルがあってこそのことだ。
「ほらみたことかーーーーやっぱ良いやんけーーーーー!!!知ってたーーーーーー!!!!!」的な勝ち誇った気持ちになった。そして、やっぱりすごいよ、亀田誠治…そりゃ、アレンジする曲、次々売れるよ…。

ところでフロントメモリーがなぜ起用されたかというと、映画原作者の漫画家さんが熱烈な神聖かまってちゃんのファンだったからだ。もともと原作のイメージソングとして執筆中にエンドレスリピートしており、映画化されるときもこれ以外考えられないと激推ししたらしい。

これと同じケースが、別作品でもあった。アニメ「進撃の巨人」である。
進撃の巨人の原作者もまた、神聖かまってちゃんの熱烈なファンである(各キャラのイメージ神聖かまってちゃんソングを妄想するレベル)。
その熱すぎる想いが実り、進撃の巨人二期のエンディングテーマに神聖かまってちゃんが起用されたわけである。

ここでも彼らはいい仕事をしている。そう、彼らは、タイアップでちゃんといい仕事をするのである。
「ナウシカのテーマソングを神聖かまってちゃんがつくったら的な感じでよろしく」というオファーを受け制作したそうだが、ゴスペルコーラスの神話っぽい壮大さ、そして打ち消せない不穏さ…かなりいい球を打ち返しているのではないだろうか。かきならすような表現の印象が強い彼らだが、なにげに、こんな引き出しもある。楽曲の表現の振り幅がしれっと広いのだ。

進撃の巨人二期の放映中、「夕暮れの鳥」はラジオでよくながれていたようだ。
ある日母親から、「車を運転してたらよい曲が流れてきて!わざわざ車を止めて聴いたのよ。そしたら神聖かまってちゃんだって。びっくりしたわ!」と言われた。私もびっくりした。オカンにリーチするって、曲として、結構すごくないだろうか。

漫画家ふたりが魅了されるのも納得である。

もちろん、上記以外にも、キャッチーなメロディが魅力的な楽曲は数多くある。
いくつかご紹介するので、よければ一サビくらいまで聴いてみてほしい。耳馴染みが気持ちいい、良曲たちである。

イントロのドラムスカッと感から最後まで駆け抜ける、さわやかな、ふつうに良曲。PVはなぜかクセの強いBL風味。

最新アルバムから。サビのメロディの音符が駆け下りる繰り返しがクセになる。

いちばん初期から歌われている名曲。桑田佳祐をして、「このメロディは俺には作れない」と言わしめた、らしい(又聞き)

苦しみと卑屈の表現者

根底にも触れていこう。
神聖かまってちゃんの楽曲はすべてボーカルのの子が作詞作曲をつとめている。

の子は整った顔はしているが、小柄で、かなり、挙動不審だ。
それも一因であったか、の子は中学校時代にかなり壮絶ないじめを受けていたようである。高校は中退。引きこもり、23歳までニートだったそうだ。くわえて躁鬱病・境界性人格障害を患っている。
そういうバックグラウンドのある人間なのだ。
の子は、苦しみと卑屈が根底にある表現者だ。

苦しみの表現者といえば、最近でいえば永田カビさんが浮かぶ。永田カビさんが自身の辛さを言語化して、さまざまな人が理解できる形に組み替えて差し出してくれるタイプのクリエイターだとしたら、の子は苦しみを抽象化し、さまざまな人に響かせるというよりも、ある種の「同類」の琴線を震わす…そんな表現者なのではと思っている。

の子の書く歌詞は基本的に悲観的でシニカルでやけくそ気味だ。
特に、初期の曲は中学時代の地獄とトラウマが噴き出すかのように、呪いの昇華昇華昇華… 直球な「学校の苦しさ」「ニートの落ちぶれさ」を歌ったもので埋め尽くされている。
かつて、ここまでストレートに「いじめ」の苦しみがダダ漏れな曲ってあっただろうか?

死ねよ佐藤おまえのために
死ねよ佐藤きさまのために
おまえはいつでもやってくる
知らない嘘をついて
(「夕方のピアノ」より)

佐藤はいじめっこの実名だそうだ。

風に吹かれてしまおう
落ち葉のようになれ果てよう
考えて生きてくような価値なんてどこにあるんだと僕は思うのです
放課後から続く蛙道、どーでもいいやとほざきつつ
どこまでもどこまでも生きたいと願っているのかよ
殺してやると呟いて頭を下げて謝った
僕はいつまでもそんな糞ゲロ野郎でさ
あぁもうどうなるか、まぁどうでもいいんですが
僕はぺんてるに行きました
(「ぺんてる」より)

ぺんてるといえば、小中学生おなじみの文房具店だ。
学校でないがしろにされ、なぶられ、真っ黒な気持ちで通学路を歩く情景が、ストリングスとぽろぽろしたさみしげなピアノの旋律とあいまって目に浮かぶ。

おそらく、この露骨な苦しさのダダ漏れ期はの子にとっての「吐き出し期」だったのではと思う。
「吐き出し期」を終えてからは、ひとつの表現の引き出しとして、一定の距離感をもって、 過去の経験を表現におとしている印象がある。とはいえ、その価値観は、性善説など糞食らえ、生きながらすでにバッドエンドのさなかにいるような、世界観である。

そんな世界観を、ポップでキャッチーな皮でくるんでできているのが、神聖かまってちゃんだ。

「わたし」の歌

わたしも、学校にはいい思い出があまりない。

むしろ、ある種の土台や自信が築けずにきてしまった原因だと思っている。
学校という何年も何年も前の経験が、こんなに人格に影響を及ぼすのかと驚くくらいだ。

何かの歯車が狂ったのは中学だった。
「空気」という概念を知った。なにもかも、正解がわからなかった。
相槌すらうまく打てなかった。これは正解なの?不正解なの?と答え合わせをする日々に愛想笑いの仕方もわからなくなった。クラスメイトがなぜ笑うのかわからなかった。しらけた雰囲気になることに恐怖しながら、土の人形のように何もできなくなってしまった。
辛いから人を遠ざけた。いや、遠ざけられたのだ。その事実は自尊心を容赦なく傷つけた。
クラスで浮いている。「ワンランク下の人間」と思われている。そんなことは構わない、自分は自分、なんて、そんな強さも視野の広さも持てなかった。それが長い間続いた。
自分は欠陥品なんだと本当に長く思っていた。
実は、社会人までそれは変わらなかった。コミュニケーションで息ができるようになったのは、結構最近のことだ。

ハッピーエンドの物語は、しばらく読めなかった。すくなくとも私の世界は、疑いなくハッピーがまわりにあるようなきれいごとじゃなかった。
根っから明るい楽曲は、その曲調自体に惹かれはしても、あくまでフィクションであり「わたしの世界」ではなかった。

それでいいのだと。
まるで自分が受け入れられ、慰めてくれるような歌に感じさせてくれるのが、の子の歌詞だった。
その世界は、あのときの「わたし」だった。

「Os-宇宙人」はわたしの歌か

「Os-宇宙人」という曲がある。アニメ「電波女と青春男」のオープニング曲として起用されていた。当時は歌声による空耳で話題だったようだが、私はこの歌を平静な気持ちで聴くことができない。

画像1

の子の本名の苗字は、大島である。かつて、の子はクラスメイトに「宇宙人」と呼ばれていた。
「Os-宇宙人」は「大島宇宙人」。
タイアップに際し、過去の経験を「使えるな」とパロディ化して楽曲を作ったわけだ。(しかし、この学生いじめあるあるの「あだ名」というアイテム…。この時点で胸がヒュッとなる)

2年生、バカは一人
ここの町の、空見上げる
サボり学生、パジャマ着てる
夏休みが、来ずに中退

冒頭からこんな感じで、かんぜんに、高校中退した当時じゃん…となる。

宇宙人って呼ばれてる。学校も退学してニートになった。異物だと思われ、孤立してる。電波だと思われてる。でも、だれにもわかってもらえないこの「電波」を、受信してくれるあなたがいた。わかってくれなくてもいい。受信してくれるだけでいい。あなたのことが、好き。
こんな歌だ。

この歌を聴いたときに、フラッシュバックするような感覚になった。

欠陥品の自分を、それでも、みとめてほしい。
欠陥品じゃなくなりたい、こんな自分はいやだ。同時に、こんな自分を受け入れてほしいという狂おしさをもっていた。

まさにこの歌のような心境だった。

地球で宇宙人なんてあだ名でも
宇宙の待ち合わせ室には
もっと変なあなたがいたの
受信してるかなと 接続してみると
みんなが避ける中で ぱちくり見ている あなたがいたから
テレパシる気持ちが、電波が違くても
きっとね何か掴んでくれてる
あなたの事が好き

自分をわかってくれる、そう感じさせてくれる人に「好き」という気持ちがあふれて、もたれかかってしまう。向こうみずで自己中心的だったかもしれないけど、その衝動と感情にあらがうことはできなかった。

その時の感情、記憶がまざまざとよみがえった。同時に、この歌に共感した。これはそのときのわたしの歌だし、理解できると思った。

痛々しい記憶や、もうさいなまれてはいない記憶をわざわざ取り出すなんて、マゾヒスティックかもしれない。
それでも、どんなに苦しくても、この記憶は、まぎれもなく私のもので、これで私ができているのだ。
わたしにとっては、思い出さなくなって薄れていく私の記憶を、リバイバル再生してくれるような大事な歌だ。

これはの子があげているセルフカバーである。カバー画像が中学の集合写真というのもなんかまた…。
ずっと叫ぶように歌っているのに、さいごの「あなたのことが、すき」とこどものように言う、それを聴くと、やらかい本音に触れたようで胸が苦しくなる。

アーティストの真骨頂

ポップでトゲトゲしい皮をめくると、そのなかにやらかくてデリケートで自意識過剰なものがひそんでいて、それが、同じやらかいものを持っている人に共感させる。

この歌わたしのこと歌ってる。
自分のものだ、と思わせる。
錯覚だとしても、そう思わせることが、クリエイターの、アーティストの真骨頂のひとつだろう。

それは、ミュージシャンの存在意義でもあるのではないだろうか。
少なくとも、神聖かまってちゃんは、私にそういった気持ちにさせてくれるバンドだった。

神聖かまってちゃんという人生

実のところ、の子はずっと過去の記憶にさいなまれているわけではない。
デビューして以来10年以上メジャーバンドをはっている中で、もちろん、彼もそれなりに過去とは折り合いをつけ、変化し、大人になっているのだ。

自分でもこのように言っている。

たとえば、The Beatlesも徐々に大人になっていって、ジョン・レノンもソロになって一気に落ち着いて、「曲、クソになったな」って僕は思った(笑)。でも、彼の人生を絵巻物として見れば、トータルで作品になっているんですよね。
もちろん、その意見はミュージシャンだけじゃなくて、いろんな表現者に向けられてきたものだと思うんですけど、でも、歳を取って死んだときに完成されるものもあるじゃないですか。そりゃ、老いた姿を見せるよりも、若いうちに死んでりゃ、誰だって美しいよ。でも、歳を重ねた人は、美しくないにしても、力強さはあると思う。それは信じたいなぁ。

初期に「死にたい死にたい」言っていたのが「年を重ねた姿も見せたい」に変わっている。「死にたい」に共感してきた人にとっては、置いてかれた気持ちにもなったかもしれない。

神聖かまってちゃんとは不思議なバンドで、ある種の家族のような受け入れと諦念で繋がっているようにみえる。
の子が大人になる前。バンドがあるから、ギリギリのところで破綻しなかった面はあると思う。それが、ちばぎんが抜けたことによりまたどう変わっていくのだろうか。

いっぽう、変わらないこともある。
インタビューでは、自分は結婚などできないだろうといっていた。
幼いころから変わらず、千葉ニュータウンに、父親と猫と住み続けることを選んでいる。
の子にとっては、表現と、神聖かまってちゃんが優先事項で、それが人生なのだ。

過去のトラウマから抜け出たように、また彼の人生にも変化はもちろん起きるだろう。変わることも、変わらないこともある。
わたし自身も、傷ついたり、癒されたりしながら、やはり過去の自分とはまた違った形になったし、いちばん苦しかった時期からは抜け出ている。でも、もちろん変わらない・変えられないこともある。

それこそが、人生だ。
人生のストーリーも含めたトータルが、神聖かまってちゃんだ。

自分が置いてかれるかもしれない。追い越すかもしれない。
そういうことも含めて、神聖かまってちゃんという人生の作品をこれからも眺めていきたいと思っている。

そんな彼らのことが、好きなのだ。


この記事が受賞したコンテスト

サポートとあわせて、感想や意見など送ってくださるとあなたの想定以上にすごく励みになります!