ネタバレ:鬱漫画の傑作『おやすみプンプン』を読み解く❶
信仰、愛、幸せ、性、死。この世で生きるすべての人間に当てはまる普遍的テーマをすべて詰め込んだような傑作漫画がある。漫画家浅野いにおの漫画『おやすみプンプン』だ。読了後、心に傷を負うこと必至な鬱漫画としても有名な本作だが、この作品には辛く不条理なこの世を生きるための道しるべが隠されているように思えてならない。このnoteは、本作を何周も読んできた自分なりの解釈を書いた大学でのレポートを加筆修正したものだ。”人間にとって信じるとは”という本作のテーマを軸に論を展開し、本作がただの鬱漫画にとどまらないメッセージを持った作品であるということを証明したい。(長文になってしまったので太字だけを追えば大体の内容をつかむことができるようになっています)
●おやすみプンプン』における信仰
まず、はじめに本作の中で最も重要なテーマとして出現する信仰について論じていきたい。浅野氏はインタビューで「信じるとは何かを描きたかった」とも公言している。その言葉通り、作中には「人がどれだけ求め合っても、傷つけあっても、完全に分かり合えないのだとしたら、一体何を信じてゆけばいいのだろう?なんてね。」(16話)「ね、プンプン 一番大切なものって何? これだけは絶対に信じられるものって何?」(50話)「自分が誰だかわからないから、神様を作ってすがりついて、不安も責任も擦り付けて、どうにか生きていけるのが人なのか?」(55話)などのように、信仰というテーマに関する言及が多くされている。登場人物たちがそれぞれ違うことを信じて生きているが故に起こるすれ違いや対立は本作の面白さを生み出す大きな要素の一つだ。次に各登場人物がどのようにものを信じているのか、もしくは何にすがって生きているのかについて具体的に言及するため、それぞれの信仰の対象を以下にまとめた。
●登場人物たちが信じるもの
・プンプン 神様
プンプンは、アフロヘアーでメガネをかけた中年男性の顔面として可視化される“神様”と呼ばれるものの存在を信じている。インタビューによると、モデルは浅野いにおの大学生時代の友人である。雄一おじさんから幼少期に教えてもらったおまじないの言葉「神様神様、チンクルほい」を唱えると出現する。それ以外では、暴力衝動、性衝動を感じるとプンプンの意思とは関係なく勝手に出現する。プンプンが幸たちとの幸せな日常を送るようになってからは出現する機会が減ったが、愛子と再会し、プンプンの心に再び闇が芽生え始めると頻繁に出現するようになる。最終巻では、雄一おじさんの息子の目の中に小さな神様が宿っているという様子が描かれている。このことから人間誰しもに根源的に備わった性質であると考えられる。
・しみちゃん うんこ神等のイマジナリーフレンド
また本作の“信仰”というテーマを強化するキャラクターとしても重要な登場人物であるしみちゃんは“うんこ神”などの存在を信じている。であり、それらは彼のイマジナリーフレンド幼少期から青年期を通じて常に彼には見えている。しかし118話でそれらに加え、前半部から腕だけ登場していたしみちゃんの母親までも彼の想像であることが判明する。
・愛子 運命
愛子は運命をひたすらに信じる人物だ。平凡な現実を否定し、運命の人物とのここではないどこか別の場所での幸せな暮らしを送ることを夢想している。小学校5年生以来疎遠になっていた二人が再び再開する、バトミントン大会を観戦するシーンで愛子はプンプンに「どんなに好きで彼氏彼女になったとしても、きっと永遠に他人以上の存在にはなれないんだ。でもあたしはそんなの嫌だ。余計なものは全部捨てて ただ、私だけをみていてほしい」(41話)という台詞からもそのような運命を信じている人物だということが分かる。
・幸 現実
幸が信じるのものは現実であると言える。彼女は外国人の母親の連れ子で、再婚相手の家族に容姿についての暴言を吐かれるなど不遇の子供時代を送り、そんな現実に打ち勝つために整形をした過去を持つ。「負けたくないから勝負をしないなんてただの甘え」「私は今をどう生きるかが重要だから、他人と競って負けることは死ぬことよりも全然怖い」「そんななバカみたいだけど単純な動機だけど前進し続けることが、あたしの自信になっているの」というような台詞や、自身が描こうとする漫画について「現実を忘れさせるための漫画じゃなくて、現実と戦うための漫画なの」と言及する台詞からもわかるように、常に現実と向き合いながら生きていることが分かる。このように愛子と幸は真逆の人間であるということが分かる。
・雄一おじさん 罪の意識、自分自身
雄一おじさんは内面の変化が多くある人物である。4巻までの雄一おじさんは「僕は罪の意識という呪縛に生かされていた?ただ一人罪の意識にもがき苦しみながら自分の生きる理由を探す行為そのものが、僕の生きる理由だったとしたら?」(39話)という台詞からも分かるように罪悪感というものに生かされていた。その事実に気付き、自分というものを受け入れてからの彼は、良い面も悪い面を含めて自分自身を信じようとする。
●信仰の正体
以上のように、『おやすみプンプン』では各登場人物が信じているものが明確に異なっている。それが原因として、様々なすれ違いや自己卑下、暴力が描かれている。そしてこのような信仰に対して、本作は実体のあるものではなく、個人の内面が作り出したもの、信念の表れなのだという解釈として捉えている。その証拠となるようなセリフをいくつか引用したい。
・「俺は『絶対』に取りつかれていたんだ。しかし人の心は深淵、疑えばきりはなく、真実を求めるほど霞おぼろげになってくる。つまり俺がわかったんだ 真実とは己で作り出すものなのだと。」(134話)
・「神様神様チンクルほい。そう唱えると神様が来てくれるって、子供のころ、おじさんに教えてもらったんだ。」「いつからだろう、それがただの自問自答だと気づいていたのは」(132話)
このように信仰は個人の内面の現れとして捉えられ、言い換えれば、信仰とは主観であると言える。したがって、主観は信仰と同様に本作において重要なテーマとなり、後半部ではそれがとくに顕著になる。それに関連する場面としてまず115話の一部を引用したい。
加えて、プンプンが愛子との逃避行を始める後半部で、東京に残された幸が描かれる124話について言及したい。プンプンのことを救えるのは自分しかいないと思っている彼女は彼の居場所を探るべく、彼を知る人物たちを訪ねる。その人物たちが語るプンプンには、彼女が知らない一面が多く含まれており、彼女は自分がプンプンについて何も知らなかったことを悟る。
そんな彼女に対して、幸の友人の蟹江から
「南条は自分の主観だけで他人を見すぎなんだよ」
「自分に見える範囲だけで相手の人間性を決めるのはなんて愚かだって言いたいの」
と言われる。これら自分が知らないプンプンの側面に直面した幸は「私はプンプンの何を知っていたんだろう」というセリフをつぶやく。プンプンを全て知ったつもりでいた幸は、実は彼の一側面しか見ていなかったということが判明する。同時にこれらの事実は読者も知らなかった事実も含まれているため、読者も主観のみでプンプンを見ていたということを思い知らされる。次の章で説明するが、本作はプンプンに対して読者が自分の主観を投影できるようになっており、このシーンで幸と同様、読者も自身の主観の狭さを認識させられる構造になっていると言える。幸が主観の狭さを認識する一方で、殺人を犯したプンプン自身の主観は偏ったまま強固なものになる。つまり読者が主観を投影できる幅は狭くなっている。それを象徴するかのようにプンプンのデフォルメされたフォルムは、下半身が人間になっている。次にプンプンのフォルムと読者に主観の関係について詳しく言及したい。
●読者が主観を投影できるプンプンのフォルム
プンプンがデフォルメされた鳥人間のフォルムをしていることもこの主観というテーマを語る上での大きな要素になっている。5巻巻末にあるフェイクの読者質問コーナーに
「この『プンプン』っていうキャラは、なんで変な形をしているんですか?何かの暗号なんでしょうか!? 中略 つまり人の数だけそれぞれの解釈があるってことでいいよな!?なっ!?」ということが書かれている。ここからも分かるように読者それぞれの主観をプンプンに投影できるようになっている。また上で説明したように、展開によって首から下が人間のフォルムになるなど、変化していく。ここで大きく変化するプンプンのフォルムの変化についてまとめていきたい。
①ひよこ 1話〜76話
②正四面体 77話〜83話
③ひょっとこ 86話
④ひよこ 84話〜98話
⑤首から下が人間、顔がひよこ 99話〜113話
⑥首から下が人間、顔が黒塗 113話〜143話
⑦完全な人間としてのプンプン 144話、145話
⑧ひよこ 146話
次になぜこのようにフォルムが変化するのかついて述べたい。デフォルメされたひよこフォルムとは実態ではないので、読者が主観を投影でき、様々に解釈することができる。解釈とは彼がどのような人間で、今後どのような人生を送るのかに対してされるものであるので、解釈の幅の狭まりは未来が閉ざされた状態と言える。解釈の余地がある状態であるひよこのフォルムは未来が開かれた状態と言える。①、④におけるひよこフォルムと⑧におけるひよこフォルムではどちらも未来が開かれた状態であるが、ニュアンスが異なるので、まずはそれについて言及したい。
●ひよこフォルムの違い
①、④におけるひよこフォルムのプンプンはまだ何者でもない少年、青年である。そして何者でもない状態とは、逆に言えば何者にでもなれる状態である。それは未来が開かれた状態であるということができる。この考え方に関してはラジオで映画評論を行っているラッパーのライムスター・宇多丸氏の『何者』評での言葉を引用したい。
「“何者”かになる手前の存在としての若者」だったことがある人なら、誰でも思い当たるところがある、非常に普遍的な話だと僕は思いました。というのもですね、「可能性が開かれている状態=青春」というのが僕の定義であるというのをですね、『横道世之介』という映画の評を2013年3月24日にやりました。
この言葉のように、青春の中にいるプンプンは何者かになる手前の存在であり、だからこそ未来への可能性が開かれた状態であるということができる。
⑧におけるひよこフォルムのプンプンについて言及する前に、未来が開かれた状態であることは、自分自身でいることだという本作の認識について説明したい。その認識を裏付けるものとして、プンプンママが癌で亡くなった後、雄一おじさんがプンプンに話しかけるシーンを引用したい。そこで雄一おじさんはプンプンに以下のような台詞を話す。
「人として生きていく上で大切なものってなんだと思う?お金、夢、他人への思いやり、なるほどどれも大切かもしれない、けど一番大事なのは『覚悟』なのさ」
「たとえ何もわからなかったとして、わかろうと前に進んでいる限り、かろうじて自分は自分でいられるんだ。この退屈な日常も、くだらない景色も、作り替えられるのは、自分だけなんだ‼だからプンプン・・・君が君でいる限り・・・世界は、君のものだ。」(69話)
つまり、この世界を生きようという覚悟を持って前進していれば、自分自身でいることができる。そうすれば世界はどうにでも変えられるのだということだ。このセリフがなぜ重要なのかというと、終盤にこれに対する回答のような台詞をプンプン本人の意思で語られるからだ。その台詞を引用したい。
「でも世界は終わらないし人類は滅亡しないから。僕らは先に進まなきゃならないんだ」(145話)
これは愛子との逃避行の末、幸と共に生きることを選んだプンプンが自分自身で編み出した言葉と言える。なぜなら今まではプンプンの台詞は、誰かのナレーションに代弁されていたが、この台詞は吹き出しで描かれているからだ。したがって未来が開かれた状態とは自分自身でいることだと言うことができる。このナレーションに関する考察については別のノートで詳しく述べたい。
●他のフォルムについて
他のフォルムについても言及したい。②、③のプンプンは外部に対して心を閉ざしているため、読者が主観を投影できる余地が狭まっていると言える。それらフォルムがそのことを象徴していると考えられる。正四面体は正四面体以外の何者でもないので、読者は正四面体としか認識できない。その意味でひょっとこも同じだ。それでも、人間とは別の対象に代理された姿ではあるので、解釈の余地はあると言える。
⑤のプンプンは、自分を偽りはじめた状態であり、それは自分自身でいること=未来への可能性が開かれた状態という公式に反するものなので、その可能性が狭まっていると言える。首から下のみが人間のプンプンはその象徴であり、読者は首から上のひよこの顔にしか主観を投影できなくなっている。人間としての部分に対しては、解釈の余地が無いからだ。
⑥では、プンプンが殺人に関与したことで彼の未来の可能性が狭まっていると言える。
⑦のプンプンは完全に人間であり、読者の主観を投影することはできない、なぜならこの状態のプンプンが描かれる144話、145話は主体性を得た彼の主観で進行するからだ。それ以外では他者の視点を借りた上で彼を見ていたため、様々に解釈をすることができたのだ。この点に関しても後で詳しく言及したい。
ひよこフォルムは浅野氏の大学時代の友人による落書きに着想を得たと公言されているが、作中ではプンプンの高校生からの友人三村の落書きから幸が着想を得たものとされている。144話では、幸がこのデフォルメされたひよこフォルムを主人公にした漫画を描こうとしていると描写されている。病院で目を覚ましたプンプンに幸が次の漫画のキャラクターの原案の落書きを見せる。そこに描かれているものは鳥人間のプンプンと同じ形をしている。つまり、この作品は幸が書いた漫画であるとも読み取れる構造にもなっているのだ。そして、幸がおやすみプンプンの物語の作者であると言えるとするならば、幸は浅野いにお自身であるとも言える。浅野いにおの投影としての幸については次のnoteで述べてみたい。
●まとめ
このnoteでは一読者である自分の主観を通じた解釈で
・本作における信仰というテーマ
・プンプンのフォルムの変化
について言及した。次のnoteでは
・浅野いにおの投影としての幸
・本作のメッセージ
について言及したい。
言葉足らずなところあったと思うので何かご指摘などいただけたら幸いです。
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