学習は「知識やスキルの獲得」だけではない。学習論研究からひもとく、多様な「学習観」
先日、岸田首相の「育休中のリスキリング」という発言が大きな波紋を呼びましたが、政府は個人の「学び直し」支援に5年間で1兆円もの予算を投じる方針を発表し、「学習」に対する世間の注目も高まってきているように思います。
学習論の研究者としてこのこと自体は喜ばしいなと感じる一方で、「学び」と言うとスキルや知識の習得のことばかりが語られがちな点が気になっています。
私が専門としてきた学習論においては、「学習」は単なる知識やスキルの獲得のみならず、もっと広く捉えて議論がなされてきました。しかし、「どうやって学習を支援するか」というHOWを考える前に必要な、「学習とは何か」という議論が、全然足りていないように思えるのです。
何をもって「学び」とするかは、時代とともにアップデートされ続けてきています。「学習とは何か」を深く、ラディカルに考えることは、学習において最も重要といっても過言ではありません。
ということでこの記事では、学習論において「学習」がどのように捉えられてきたのかを整理しながら、「学習観」を見直すことの重要性について書いてみたいと思います。
「何を『学び』と捉えるか」は人によってさまざま
「学習」とはなにか?
この問いに、あなたならどう答えるでしょうか。
「学習」は子どもの頃から触れる身近な概念でありながら、いざこのように質問されると、案外答えるのが難しいのではないかと思います。
実際、この質問に対する答えは、人によって驚くほど違います。学習観、すなわち「何を『学び』と捉えるか」は人によってさまざまで、とりわけ30代、40代と年を重ねていくにつれて、さらに個人差が大きくなっていく印象があります。
たとえば、学生時代に真面目に勉強してこなかったビジネスパーソンの中には、「自分は学ぶことが苦手で、本もほとんど読まないんだけど」と言いながら、傍から見ていると現場でものすごく多くのことを吸収して、成果を出し続けている人がいますよね。他の同僚や後輩からすると「あの人は学び続けていてすごい」と見えていることがある。
こうした認識と結果の齟齬は、学習を「本を読むこと」「机に座って1人でやるもの」と捉えているか、「現場での実践を通じて問題解決に必要なスキルを身につけること」と捉えているか、という学習観の違いからくるものです。
学習観に「正しい/誤り」はありません。しかしながら、「知識やスキルを身につけること」は、幾多ある学習観のうちのほんの一部に過ぎません。
たまに「ものすごく本も読んでいて、セミナーにも参加しているのに、いまいち成長を実感できない」という人がいますが、それは学習をあまりに狭いものとして捉えているせいかもしれません。そういう時こそ、多様な学習観に触れ、自身の学習観を見直すことで、より豊かな学習への扉を開くはずです。
「学習とは何か」という問いについては、心理学を中心とした「学習」に関する学問分野において、多くの議論がなされてきました。
これから取るべき学習観を考えるにあたっては、これらの先行研究における議論の蓄積を踏まえることが近道になるでしょう。
そこで今回は、学習論の蓄積をひもときながら、「学習とは何か」という問いに対する答えがどのように変遷してきたのか、特に重要な議論をピックアップしてご紹介したいと思います。
学習とは「行動の変化」──学習観その①:行動主義
まず、学習論のルーツと言われているのが、「行動主義」という考え方です。
1913年頃、当時の心理学の研究方法に対する批判として登場しました。
それまで心理学では、「いま何を考えているの?」と直接尋ねる「内観法」が主流でした。
これに対し、「直接相手に訊いても、意識や思考のプロセスまではわからないのではないか?」と批判をしたのが、心理学者のJ.B.ワトソンです。ワトソンは「客観的に観察可能な行動に着目すべきだ」と、行動主義を提唱しました。
行動主義では、行動を刺激(Stimulus)に対する反応(Response)と捉え、刺激と反応の間にある関係性を読み解くことで、人間の心理を明らかにしようと考えました。
要するに「パブロフの犬」と同じ原理で、人間も報酬を与えることである行動が増えたり、罰を与えることである行動が減ったりすると考えたわけです。
この考え方を原理をもとに学習論をアップデートしたのが、バラス・スキナーという人です。
スキナーは、「環境による刺激によって、人間の行動は変わる」という行動主義の考え方のもと、人間の学習を、適切な刺激を与えることによって、学習者の「行動が変化する」こととして捉えました。
そしてスキナーは、学習ステップを細分化し、ゆるやかに難易度が上がっていく「スモール・ステップ」や、学習者が問題を解いたらすぐに正誤を判定する「即時フィードバック」の仕組みを取り入れた「プログラム学習」を開発し、授業・教材設計の思想に大きなインパクトをもたらしました。
行動主義は学習論的には非常に「古い」考え方ですが、ビジネス現場ではこの考え方がいまだに強固だったりします。部下がミスしたら即座にフィードバックすべきで、それによって「行動」が変わらなければ成長したことにならない…と考えているマネージャーは多いですよね。
学習とは「新たな認知の枠組みを構成すること」──学習観その②:構成主義
プログラム学習の仕組みは、今も多くの教育現場で取り入れられていますが、行動主義という概念自体は、その後のさまざまな反証実験によって、次第に理論的に破綻していきます。
たとえば、趣味で絵や小説を書いていた人が、いざ報酬を与えられ仕事として依頼されると途端にやる気がなくなってしまう、といったことがあります。行動主義的には報酬が与えられたら、その行動は強化されるはずなので、これは明らかにおかしいのです。
このように、「外界からの刺激とそれに対する反応」というシンプルな図式だけでは説明のつかない行動があること、人間の思考や感情はそんなに単純ではないことがわかってきたのです。
そこで1950年代半ばに登場したのが、「認知主義」という考え方です。
認知主義では、人間の頭の中で起こっているプロセスを精緻に明らかにすることを試みます。条件を変えた心理テスト(クイズやパズルなど)を行い、反応時間や正確さを測定することで、認知プロセスの特性を推測する実験研究や、考えたことの自己報告やインタビューといった手法を重ねることで、1960年代には、行動心理学をアップデートする形で、認知心理学という領域が確立しました。
さらにこの頃、認知科学者のジャン・ピアジェによって、「構成主義」という考え方が提唱され始め、学習論に大きな衝撃をもたらします。
ピアジェは、人間は自らの心に世の中を捉える知識構造(シェマ、スキーマ)を持っており、学習とは、「外界との相互作用の中で、新しい認知の枠組みを構成すること(シェマを書き換えていくこと)」であると言いました。
たとえば、「ドア」という概念について学習する場合を考えてみましょう。うちの4歳の子供の場合は、ドアについて「部屋と部屋の間にあって、ドアノブを引くと開くもの」というシェマを持っており、家にあるドアとは色や形が違っても、ドアを「ドア」として認識し、開けることができます。このプロセスを「同化」と言います。
ところが、引き戸やふすまなどの知らないタイプのドアに出会ったときは、自分で試したり、大人に訊いたりすることで、「ドア」のシェマをアップデートすることになります。このプロセスを「調節」と言います。
外界との相互作用を通じて、これらの「同化」と「調節」を繰り返すことにより、シェマが書き変わっていくプロセスこそが、構成主義における「学習」なのです。
行動主義の時代には、知識とは、真っ白な頭の中にペタッと貼っていくようにインプットされるものだと捉えられていました。そのため、「外界とのインタラクションを通じて、知識構造(シェマ、スキーマ)は変わっていく」というピアジェの考え方は、非常に革新的でした。
学習とは「コミュニティへの参加に伴うアイデンティティの変容」──学習観その③:状況的学習観
ところが1980年代に入ると、ピアジェもまたさまざまな批判にさらされるようになります。
そんな中で生まれた概念が「状況的学習」です。
状況的学習は、人間の認知は、個人の知識構造(シェマ)のみならず、むしろ道具や他者とのコミュニケーションといった「状況」に埋め込まれて成り立つとして、構成主義を批判しました。
たとえば、目の前にドアがあったとしても、周囲の人の様子から「このドアは開けない方がよさそうだ」と感じて、「ドアを開けない」という判断をすることはありますよね。これは、自分のドアに対するシェマではなく、周囲の状況を使って認知を行っているわけです。
その後、文化人類学者のジーン・レイヴとエティエンヌ・ヴェンガーが、状況的学習の考え方を発展させ、「正統的周辺参加論」という概念を提唱し、この考え方がまた学習論に大きなパラダイムシフトをもたらしました。
正統的周辺参加とは、「コミュニティにとって重要だが周辺にある仕事」に参加することで、次第にアイデンティティが変容していくプロセスを捉えたもので、わかりやすい例が徒弟制です。
たとえば、服をつくる職人の工房において、弟子入りした新人がいきなり服をつくらせてもらえることはまずありません。まずはボタン付けのような服づくりから遠い周辺的な仕事から始まりますが、同時にボタン付けは、コミュニティにとって非常に重要な仕事でもあります。これが正統的周辺参加の「正統的」の意味するところです。
その後、ボタン付け、裁断、縫製と、徐々にその服づくりの中核をなす作業を任せてもらえるようになる中で、弟子は技術を身につけ、「一人前の服職人」というアイデンティティへと近づいていきます。
レイヴとヴェンガーの正統的学習参加論が革新的だったのは、「コミュニティへの参加に伴うアイデンティティの変容」という学習観を提示したことです。
特に「参加」というのは、学習における新たなキーワードで、ワークショップのような参加型の学びの意義を説明する理論的な支えとなりました。
また、より複雑な現代環境に適応する形で、正統的学習参加論から派生したのが「越境学習」です。
越境学習という言葉は、「会社の外に出て新しいスキルを身につける」といったイメージを喚起するかもしれません。
しかし、その本質は「アイデンティティの変容」。あるコミュニティにおけるアイデンティティを維持しつつ、別のコミュニティに参加することで、アイデンティティが複雑に編み直されることにあるのです。
学び続ける組織をつくるため、学習観をすりあわせる
その後も「社会構成主義」「活動理論」「拡張的学習」……と、さまざまな学習論が発展していくのですが、それぞれを細かく解説しているとそれだけで一冊の本になってしまうので、ここでは深入りせずにおきます。
最初のところでも書いた通り、学習観は「これが正しい」「これが間違っている」というものではありません。
ただ、自律的に学びつづける組織をつくる上では、個人によってバラバラな学習観を統一することが非常に重要です。
学習とは「知識やスキルを身につけることだ」と考えている人と、「アイデンティティを変容させることだ」と考えている人とでは、研修や1on1のやり方一つ取ってもまるで異なるためです。
私が経営するMIMIGURIでは、これまでの学習論の系譜をふまえ、下記のような学習観にもとづいた経営を行っています。
こうした学習観を組織内で統一していることで、たとえば以下のような効果が生まれています。
1つは、越境学習や多様なコミュニティに参加する文化が促進され、非公式なラボやコミュニティが生まれたり、そうした活動にメンバーがより積極的に参加するようになっていること。
ともすれば自分の業務に関係する「必要な学習」に閉じてしまいがちなところが、積極的にコミュニティに参加することで、自分のアイデンティティの揺らぎを楽しめる組織になってきていると感じます。
もう1つは、特に部門長クラスの経験値の高いマネージャー層のリフレクションが進んでいることです。MIMIGURIには、いくつかのスタートアップや事業会社などでジェネラリストとしてに活躍してきた結果、キャリアを振り返っても自分のアイデンティティがよくわからず、「自分にはこれといって学んできた専門性がない」とコンプレックスのように感じているマネージャーが少なからずいました。
しかし上記の学習観を持つようになると、「自分のアイデンティティが変容し、何者かよくわからなくなってしまっていること自体が、学習してきた結果である」と意味づけでき、自分のキャリアを肯定しながら、「そんな自分はいま何者になろうとしているのか?」と、より前向きにリフレクションすることができるようになりました。
組織の学習観をはっきりさせることは、強い組織文化を作る上で、まず何よりも初めにやるべきこことであるように思います。これらの学習観の変遷については、以下のCULTIBASEの動画コンテンツでも詳細に解説しておりますので、よければご覧ください。
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