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読書は、心に自分だけの城をつくる

ここしばらく続いていた体調不良。
なんとなく察していた人もいるかもしれないけれど、私は新型コロナウイルスの陽性患者として、自宅療養と隔離を命じられていた。


コロナが姿を現し、騒ぎが始まってから2年以上。「陽性です」と病院で告げられた時には、不思議な気持ちだった。嫌というほど存在を常に意識させられていたのに、初めて正体を明かされたような。

──なるほど。リアルコロナって、こんな感じなんですね。

測るたびに上がっている体温計の数字をぼんやり眺めながら、信じられないほど、よく眠った。熱が出ていたのは初日だけで、2日目からは「よく眠る」に「よく食べる」が追加される。

自宅隔離のストレス太りを本気で懸念するくらい元気ではあったものの、パソコンの画面に向かって文章を打ち込む集中力は流石になく、まともに頭を回転させるのに1週間近くはかかったと思う。

液晶画面を見ているとすぐに目と頭が疲れて、やっていられない。この療養生活で、ウイルス本体よりも天敵と言えるのが「さみしい」だった。

毎日、何時間もベッドの上にいるしかなくて、簡単な家事をこなすだけでしばらく睡眠が必要になるほど体は疲れるし、喉が痛くて声を出しにくいために、電話越しに人と話すことも憚れる。

ただ時間を垂れ流すことしかできないような、何とも言えない空虚を埋めてくれたのが、積読していた小説たちだった。液晶画面はつらくても、休み休みなら書籍は読める。それに気づいてからは、できる限りの時間を読書に充てた。物語の中を泳いでいる間は、その世界の感情が自分のリアルになる。

天敵の「さみしい」もいない、意味もなくマイナス思考に陥る陽性患者の夜もない。


夢中で読んだ一冊に、『流浪の月』がある。

松坂桃李と広瀬すずが主演を務める映画が5月13日から上映を開始しているから、既に映画で観た人もいるだろう。


これから読む、あるいは観る人もいるだろうから、ストーリーについては触れないけれど、私はこの作品が、本当に、すごく好きだった。

読み終わった次の日も、その次の日も、今日も、何度も何度も時間が空くたびに手にとって、浸り直したくなるくらいに、とても好きだった。

読み終わった後も長く残る、この物語が与えてくれたさまざまな感情をなぞり、何度も胸がきゅうっと狭くなる。
主人公の更紗(さらさ)と文(ふみ)が見ていた世界、これからの未来を想像しては、誰かと語り合いたくて、感想をシェアし合うサイトにアクセスしてみんなのレビューを読んでみたり、考察や解説記事を探して読んでみたりした。


だけど、これっぽっちも満たされないのだ。
この気持ちを分かち合いたいという欲求に、誰かの言葉が触れることはない。

言ってしまえば、小説に限らず、映画やドラマや音楽
「作品を通して心に芽生えた感情を、全く同じように他人と共有すること」など出来ないのだけど。

心は、自分だけのなかにあるもので、他の人にとってもそれは同じで。
触れ合ったり言葉にしたり、いろんな方法でその中身の解像度をどうにか高く、伝え合おうとして力を尽くすし、「わかるよその気持ち」と深く頷いたりもするけれど

全く同じ形状であるなんてことは、ない。

小説によって影響された心の中身を、分かち合いたいと思えば思うほどに、自分の「好き」は、自分の中にか存在し得ないことを痛感した。

その寂しさが、どんよりと虚無を広めていく。一方で、私が『流浪の月』から得た感情の全ては、他人には完全に不可侵で、この形状のままずっと、繊細なままずっと、私の解釈のままずっと、カラダの中に置いておけるということが、救いのようにも感じた。

私の中の「好き」という聖域に、文と更紗が、静かに腰をおろす。
ありがとう。大好きだよ、と囁きたくなる。


小説は、映画として描かれる世界よりも、ずっとずっと自由度が高い。

例えば、「文がコーヒーを飲むシーン」ひとつとっても、小説の場合、創造される世界は読者によってそれぞれ違う。

私が描いた世界の文は、松坂桃李のような目鼻立ちのはっきりとした青年ではないし、着ている服も、体格も、もっとヨレッとした頼りない感じだ。カフェ店内の暗さやしつらえ、聞こえる音のイメージも、何から何まで映画とは異なる。全く同じである、はずがない。

「あのコーヒーを飲むシーン良かったよね」と感想を共有しようにも、映画を見た2人が思い出す絵は共通のひとつであるのに対して、小説を読んだ2人が思い浮かべるものには、あまりにも違いがある。
言葉だけが上澄みを走って、いつまでも立体感のない会話だけが続いていくような。


小説を通してつくられた世界は、どこまでも、私だけのもので、あなただけのものだ。
この城には誰も入れないからこそ頑丈で、孤独であるが故に、自分の創造した主人公たちと、深く人生を共にしていける。

そういう特別な豊かさが、小説にはある。


『流浪の月』に触れるたびに、私は療養期間のことを思い出すだろう。
コロナによってもたらされた「さみしい」を奪う代わりに、分かち合うことのできない聖域が増えたことによる「さみしい」を置いていった。少しだけ苦い幸福な時間が、この作品には流れている。


誰とも共有できない心の城に、文と更紗が生きている。私が描いた部屋の中で、バニラのアイスクリームを食べている。



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