「嫌い」の逃げ道にある「好き」に甘えたりしてさ
こうして毎日noteを書くようになってから、ひしひしと感じているのだけれど……
誰かに「嫌いなもの・こと・人」を伝えるのは、とても難しい。
いつかnoteに書こうと思って日々書き溜めているメモを見返すと、書けずにずっと残っているテーマのほとんどが、自分の嫌いな何かについてだった。
なぜ書けないのか。
正直に言うと、とても大変で、面倒くさいからだ。
たとえば私が「アイドルが嫌いなんだよね」という一言だけ、ここに書くとする。
※例として挙げましたが、私はまったくアイドルを嫌っておりません。輝かしい生命体だと思っております。
その一言だけ置かれていたら、アイドルを愛している皆さまは当然嫌な気持ちになるだろう。以前のnoteにも書いたように、人の心に宿る“好き”という感情は、聖域だと思っている。
人様の聖域を否定する言葉を使えば、「お前に何がわかるんだ」と怒られるのは当たり前だと思うし、自分自身を否定された気持ちになったり、傷ついてしまったりする人もいるかもしれない。
「嫌い」を人に伝えるときには大前提として、誤解をさせてしまわないように全神経を注いで各方面のケアをしながら、自分の思いを伝えていく必要があるのだ。
たとえば嫌いな理由が
「アイドルは可愛いすぎて、沼る要素が多すぎて、応援するたびに貧乏になってしまうから嫌いだ!奨学金を返さなきゃいけないのに!」
だったとしたら。
「アイドル嫌いなんだよね」の一言よりは、だいぶ向けられるブーイングが減るだろう。
とはいえ、「貧乏になるから嫌いだ!」も乱暴な物言いだ。
本人は自分自身だけを否定しているつもりだとしても、この言葉は「アイドルを応援することで貧乏になること」を、悪としているように見える。
この世界には、毎月のお給料の全てをアイドルに捧げて、幸せな人生を送っている人たちだっている。彼らを否定する表現とみなされても仕方がない。
その意図がまったくないのであれば、「該当する誰かの価値観を否定しているわけではない」という意思表示を丁寧にしておく必要がある。
「嫌い」をわざわざ文章にして人に伝える(見せる)ときに、
“言葉足らず”は許されないのだ。
意図せず誰かの聖域に泥を投げたりしないように、この言葉が、この表現が、適切なものであるかどうかを常に厳しい目で確認しなければならない。自分の全力でそれを行ったとて、至らない箇所がひとつでもあれば自分に矢が飛んでくることも覚悟しなくてはいけない。
それが「嫌い」という言葉を用いて、誰か・何かを否定する人の仕事だろう。本当に、労力を要する。
「好き」と比べてみれば、一目瞭然。
「アイドルまじ好き!ちょ〜〜可愛かった最高〜!!!!!!!」
何がどう可愛くて、自分の心が何にときめいてアイドルを好きだと語っているのかなんてことは、一文字も存在しなくてもいいと思いませんか。
「何が好きなんだよ!言ってみろや!!」
なんて、言葉の深層を要求してくる怒りの声は基本的に来ないだろう。
「好きなんだね☺️よかったね☺️」きっとそう思うのが大半だ。
「嫌い」を語るのは、私のなかでは“よっぽどのこと”。
もちろん、基本的にポジティブなことについて書きたいという思いもある。でも、「嫌い」を語ることに気後れして「好きなこと」に逃げている自分がいることも、わかっている。
センシティブでリスクが高い「嫌い」と向き合う体力を、失ってはいけないんだよな。鍛えなくてはいけないんだよな。絶対に。
感情を飼い慣らし自分の「嫌い」を分析して、嫌いだと感じる対象物を分析して、世の中の声を調査して、対極にいる人の気持ちを勉強して、「嫌い」のなかでも肯定している部分と、否定している部分を丁寧に棲み分けて。
それを適切な言葉で、齟齬のないように気をつけながら、文章をつくっていく。
「嫌い」から何を伝えたくて書くのか、この「嫌い」をどう自分の栄養素にしていくのか。執筆中には自問自答が永遠と続くことだろう。
だから、大切なのだ。
好きを適切に伝えることも、十二分に難しいのだけれど。ある意味「言葉の乱暴さ」を常に、許されているとも言える。シンプルに、自分自身との戦いが大きい。
嫌いを語れない自分の怠慢さを、「好き」に隠してテーマを選んでばかりいたら、ダメなんだよなぁ。
そもそも「好き」に怠慢を孕ませた自分に、「美意識低〜〜!!」って思うもんなぁ。
「好き」はそれだけの純度のまんまで、ちゃんと自分の胸に置いておかないと。
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