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ことばを「撤回」するということ。

つい最近、某組織のトップが女性蔑視と取れる発言をして、翌日謝罪と撤回をした。(ちなみに謝罪に追い込まれた、とかよく言うけどこの言い回しは好きではない。本来謝罪は自発的に行われるもののはず)
どうやら関係している組織の方々も「謝罪したのだから問題ない」といった対応をしているようで、これには正直なところ疑問を感じてしまう。

無自覚の特権とか、ジェンダー差別とか、言いたいことはいっぱいあるけど、一度置いておくとして。
政治家の人の問題となる発言の謝罪は、多くの場合撤回がセットになっている。
いつも思う。ことばは撤回できるのだろうか?

他人の立場になって考える

僕は医者をしている。
患者さんに、告知をしたりとか、大切な情報を伝えるときには、丁寧に言葉を選ぶ。
あるいは性教育であったり講演であったり、大勢の人に言葉を伝える時には、本当に慎重になる。
自分のことばが与える影響が時に大きいこと、人を傷つけることがあることを、人生のいくつかの場面で経験している。

自分は世の中の全てのことは知らない。
だから全ての人に配慮して、傷つけないとは約束できない。
それでも、ひとつひとつのことばが、自分ではない人にとってどう響くのかを、一生懸命考えている。
それが”他人の立場になって考えること”ではないだろうか?

ことばは「撤回」できない

一度声になり文字になり、自分の手を離れ、人に伝わったことばは、何をしてもなかったことにはならない。
ことばは撤回なんてできないのだ。
おこった出来事の顛末を変えられるとすれば、心からの対話だけだろう。

どうして問題になったのか?
聞く人はどう受け取るだろう?
なぜ自分はこの言葉を選んだのだろう?

対話は自分の過ちを振り返り、そこに理解がなければ生まれない。
もし自分の中で答えが出ないなら、自分ではない人に聞くといい。
傷ついた人、怒りを覚えた人、悲しくなった人。
いろんな人に聞いてみるといい。

長い人生で出来上がった考えそのものを、責める気はない。
それでも、自分の立場が発する言葉の意味を考えた時、慎重になれないものだろうか。明らかに間違っていても、誰も何も言わないのだろうか。
誰も周りに教えてくれる人がいないのは、それも不幸なことかもしれない。

言葉の問題は誰の責任か

言葉狩りだとか、気にしすぎとか言う人もいるだろう。
こうしたことを、受け取る人の問題に論点をすり替えてはいけない。
言葉は、発した人に責任がある。
どう伝わるかまで考えて、言葉を紡ぐ必要があると思う。

言葉は撤回できないからこそ重く、人を動かす力がある。
だからこそ自分が伝える言葉は、慎重に選びたい。(自戒を込めて)


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